後白河天皇聖忌の意味
宝徳三年三月十三日は後白河天皇聖忌ということで長講堂で御経供養が行われ、後花園天皇の側近の坊城俊秀(嘉吉の乱の綸旨の奉者)が派遣されています。
どの天皇の記念日を取り上げるか、というのは極めて政治的な意味合いを含みます。そもそも全ての天皇の誕生日を祝日にしていたら、日本は世界に冠たるバカンス国になります。そこで明治天皇(十一月三日)と昭和天皇(四月二十九日)が選ばれています。これはその誕生日を祝日にした人々が明治天皇と昭和天皇をことさらに持ち上げようとしていることを意味します。十二月二十三日はどうなるのでしょうか。
神武天皇の即位の日とされる日を祝日に決定するのも同じように政治的な意味合いを含みます。
で、後白河天皇の命日ですが、後花園天皇にとって後白河天皇とはどういう意味を持っていたのか、です。
結論から言いますと、後白河天皇の集積した王家領荘園である長講堂領が持明院統の財政基盤になっていたのです。従って持明院統の天皇は後白河天皇をことさらに自らの祖として持ち上げるのです。
ちなみに長講堂領は、保元の乱で没落した藤原頼長の荘園を元に後白河天皇が後院領として整備したのが始まりです。鳥羽法皇が集積した八条院領は鳥羽法皇の皇女の暲子内親王に伝領されていました。こちらは後鳥羽皇女の昇子内親王から順徳天皇・後高倉法皇を経て亀山天皇に移り、大覚寺統の所領となります。
ともあれ、持明院統の財政基盤である長講堂領を形成した後白河天皇は彼らにとって一つの画期と意識されていました。
ちなみに他の画期としてはやはり後嵯峨天皇、後深草天皇でしょう。特に大覚寺統と持明院統の共通の祖である後嵯峨天皇については本格的な評伝が出されてもいいのではないか、と思います。彼が天皇制の歴史に占める割合は決して小さくはないし、武家政権下における天皇のあり方を作り出したのは後嵯峨天皇です。