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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

称光天皇の重病に際しての後小松上皇と足利義教の交渉

称光天皇が重病に陥ったのは正長元年七月六日の夕方です。万が一のこともある、と典薬頭丹波幸基(『満済准后日記』では「行基」)が報告しています。八日には小倉宮後亀山天皇皇孫)が逐電しました。十一日には管領畠山満家が義教の意向を満済の下に持ってきます。そこでは新天皇は誰がふさわしいか、関白二条持基と相談するようにということでした。そこで満済万里小路時房を呼びつけ、義教の意見を持基に伝えています。

 

十二日には義教が満済に今日ばかりは京都にいるように命じ、午後に呼びつけます。持基の意見はとりあえず後小松上皇と相談すべきということで、義教は持基に十六日に院に申し入れるように依頼します。

 

十三日には伏見宮家の長男の彦仁王を伏見から若王子に入れます。これは義教の意向です。実際には満済伏見宮の側近の世尊寺行豊を通じて伏見宮家に申し入れています。これは内密に若王子に入れています。理由は二つです。一つは分かりやすい、南朝方から彦仁王の身柄を奪われないようにするため。もう一つは、天皇が突然快復した場合に備えて、です。称光天皇には前歴があります。崩御すると誰もが思っていたら突如体調がもどったのはいいのですが、その病気を伏見宮貞成親王の呪いのせいだ、と騒ぎ出してややこしいことになりました。もし称光天皇の体調が快復して自分の後継者に彦仁王が担ぎ出されていることをしればただではすみません。若王子に入れておいたのは、もしそういう事態が起こった場合は「いや、彦仁王は単に若王子にお参りにきていただけですからぁ」と言い訳すれば万事解決です。なぜ若王子か、といえばそこの忠意僧正は満済の子分だからです。

 

十六日、いよいよ申し入れです。この日のことは現代語訳を作ってみました。

十六日、晴れ、醍醐寺より京都に出て室町殿に参った。小倉宮伊勢国司の在所の多気にいらっしゃることが、方々より報告があったことをおっしゃった。今日、室町殿より仙洞に申しあげることがある。新主の事、どのように決定されるのか、内裏様は医者の見立てでは近日中に重大事が起こるだろう、ということである。間違いなくその時になって大騒ぎになるだろう、そこで内々に申し上げるのである、ということである。このことを執柄(関白二条持基)が院参して申し上げることがよい、ということを万里小路時房、勧修寺経成、広橋親光の三人を通じて関白に申し上げた。そこで関白が院参して申し入れられたところ、仙洞はいささかご体調がすぐれない、ということで、ご対面はどうだろうか、重要事なので申し次ぎを通じて奏聞するのはよろしくない、ということであった。そこで書状を通じて申し入れたところ、勅答は伏見殿宮(彦仁王)を猶子として決定すべきであるということを勅書に載せられていた。そこで上皇(後小松)の勅書は関白(二条持基)より時房卿を通じて室町殿(足利義教)に進上された。珍重であるとのことであった。次に室町殿から経成卿を通じて上皇に申された。「伏見殿の宮御方(彦仁王)は去る十三日より若王子へ移し奉りました。その事情については少しお考えになることもありましょうが、御用心の為であります。この旨は真っ先に申し入れるべきところではありますが、新天皇のことについてまだ仰せ出されていない段階で先にこのようなことを申し入れるのはこの御内心(彦仁王を次の天皇に指名する)でいいのだろうかと、叡慮もどうだろうと考えておりましたので今まで遠慮しておりました。すでにこの宮で決定すべきであると仰せ下されたので今申し上げます」ということであった。経成卿は遠縁の者の服喪なので参ることはできず、書状で申し入れた。勅答は思った通りお喜びのことを申された。その詳細は、彦仁王が崇光流として即位するのではないかと内心恐れていたが、室町殿が申されるには上皇の叡慮の通りにする、ということで大変安堵した、ということである。勅書を見た。

 

私が引っかかったのは、原文では「仙洞聊御窮屈折節也。御対面等可有如何哉。重事之間以申次仁御一奏聞不可然也云々」となっているところです。次の天皇をどうしようか、という重大な局面で、天皇家の家長である後小松上皇が本当に体調不良で会わない、ということは考えられません。重体ならばとにかく、「御窮屈」程度ならば朝廷の責任者である二条持基に面会することくらいできるでしょう。要するに後小松上皇は持基に会いたくないのです。なぜ会いたくないか、といえば、上皇サイドの言い分を口頭で義教に伝えることに不安があったからでしょう。だから「申次仁」も拒否したのです。義教は改めて書状を出して後小松上皇の意を確かめます。これは彦仁王一択だったわけです。これは実は前室町殿の足利義持が後小松上皇と話し合いの結果、彦仁王と決めていたわけで、後小松上皇には選択肢は残っていません。

 

ただ後小松上皇がこだわっていたのは彦仁王が崇光皇統であることです。崇光皇統に皇統が移り変わるのであれば、別の没落した皇統を後光厳皇統の猶子とすればその方が確実に後光厳皇統を残せる、そう考えたとしても不思議ではありません。後光厳皇統を血統で残すことはもはや叶わぬことです。問題は誰を後光厳皇統を継承するものとして後小松上皇の猶子に迎えるか、だったわけです。彦仁王の問題点はまさに崇光皇統であることです。彦仁王には実父がおり、実父を天皇待遇にすれば後光厳皇統は断絶し、崇光皇統に「正統」(しょうとう)が移動することになります。この「正統」については次に説明します。義教が彦仁王の処遇について後小松上皇に一任してくれたことで、後小松上皇も彦仁王にゴーサインを出したわけです。

 

原文では以下の通りになります。「此宮御事、以伏見殿御一流之儀被定申新主歟、御怖畏内々千万処、只今為室町殿御申様偏被任仙洞叡慮間、於今者旁御安堵此事也云々」

 

で、新井白石も逃げる気満々の一休の和歌ですが、「常盤木や 木寺の梢 摘み捨てよ 世を継ぐ竹の 園は伏見に」というこの内容がもし万が一一休が後小松上皇に送ったものだとすれば、持基と後小松上皇の会談が十六日にセットされた十二日に後小松上皇が一休に「院宣」(もし本当に後小松上皇が一休に相談するのであれば女房奉書を使うはず)を出して意見を求めたのではないか、という仮説が立ちます。実際、この和歌は生々しすぎて後世の仮託とは見えません。一休に譲る、という内容ならば後世の仮託で決定ですが、この和歌はどうみても後小松上皇常盤井宮家(亀山天皇の子孫)や木寺宮家(後二条天皇の子孫)を自らの皇位継承者に考えていたことを諌めた和歌です。

 

二条良基の孫の持基は和歌にも堪能でした。案外この短歌は持基と後小松上皇の予備折衝で木寺宮家か常盤井宮家から迎えようとしていたことを察した持基が後小松上皇に釘を刺したものかもしれません。

 

そうなれば後小松上皇にできることはただ一つ、彦仁王を後小松上皇の猶子として後光厳皇統を継承させることを約束させることです。

 

木寺宮家の明仁法親王と承道法親王は後小松上皇の猶子になっています。彼らの弟の邦康王も上皇の猶子となって皇位を継承する、という夢を後小松上皇は持っていたのではないでしょうか。常盤井宮に関しては直明王でしょうか。常盤井宮は少し弱い気がします。