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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

「正統」思想はいつ始まったか

「正統」(しょうとう)思想は室町時代特有の皇位継承原理です。

 

天皇系図を幹と枝葉で区別し、幹を「正統」とし、枝葉を非「正統」の天皇と区別し、「正統」の天皇の子孫が永続する、と考えます。

 

もちろん皇位継承がスムーズに行われている場合は「正統」かどうかなどということは問われません。問題は皇位継承がうまく行っていない場合です。

 

鎌倉時代中期にややこしい事態が訪れます。

 

始まりは後嵯峨天皇皇位を嫡子の久仁親王に譲位します。これが後深草天皇です。で、ここで後深草天皇の子孫が続けばなんてことはなかったのです。しかしここで後嵯峨上皇は余計なことをします。

 

彼は弟の恒仁親王を寵愛し、恒仁親王およびその子孫に皇位を代々継承させようとしました。亀山天皇です。後嵯峨上皇亀山天皇に世仁親王が生まれると立太子させます。後宇多天皇です。

 

これはこれでそのままうまくいけばいいのですが、後深草上皇はたまったものではありません。鎌倉幕府に訴えます。ここで北条時宗が大チョンボをやらかします。時宗後深草上皇を気の毒に思ったか、後宇多天皇の後に後深草上皇の皇子の熈仁親王を据えます。伏見天皇です。

 

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系図をみていただければわかると思いますが、天皇家が二つに分裂してどちらが本家かわからなくなります。

鎌倉幕府霜月騒動を経て平頼綱がイニシアティブを掌握します。彼は露骨に後深草上皇とその子孫である持明院統を贔屓にします。将軍の惟康親王を京都に送還し、後深草皇子の久明親王を将軍に、皇太子を伏見天皇皇子の胤仁親王に決定します。ここに院(後深草)、天皇(伏見)、皇太子(胤仁親王)、将軍(久明親王)と全て持明院統が占めることになります。

 

このまま推移すればそれはそれで平和だったのですが、そうは問屋が卸しません。

 

伏見天皇がやる気満々すぎて幕府もドン引きし始めます。頼綱も殺されてしまい、後ろ盾を失った伏見天皇は胤仁親王に譲位(後伏見天皇)しますが、次の皇太子は大覚寺統の邦治親王に決まります。そして後伏見天皇は在位三年ちょっとで邦治親王に譲位に追い込まれます。後二条天皇です。で、幕府はこのころ双方の顔を立てる両統迭立という愚策に走ります。後二条天皇の次は後伏見上皇の弟の富仁親王を擁立し、後二条天皇の急死で富仁親王が即位します。花園天皇です。

 

ここで両統迭立をつぶそうとしたのが後宇多法皇です。

 

後宇多法皇花園天皇の皇太子に後二条天皇の皇子の邦良親王ではなく、花園天皇よりも十歳も年長の尊治親王をつけ、さらに尊治親王の即位後(後醍醐天皇)の皇太子に邦良親王を押し込むことに成功します。これは邦良親王立太子の三年前に連署に就任した金沢貞顕大覚寺統と関係が深かったことが背景にあるでしょう。

 

後醍醐天皇は要するに邦良親王の引き立て役だったわけです。しかし後宇多法皇崩御したのちには後醍醐天皇は自らの子孫を天皇につけようと考え、また後伏見上皇後醍醐天皇を引き摺り下ろそうとして活動し、邦良親王後醍醐天皇を引き摺り下ろそうと画策します。

 

さて、「正統」という概念を作り上げた北畠親房はこのような状況下にあって後醍醐天皇に仕えていました。

 

ただ親房自身は後醍醐天皇にものすごく入れ込んでいたわけではなかったようです。邦良親王薨去後に幕府は後伏見上皇皇子の量仁親王を皇太子に据え、後醍醐天皇はそれを不満として倒幕の兵を挙げますが瞬殺され、隠岐に流されます。量仁親王が即位し(光厳天皇)、後伏見院政が成立します。後伏見上皇光厳天皇の皇太子に康仁親王をつけ、両統迭立にこだわりを見せます。

 

この時、すでに親房は出家していましたが、長子の顕家を光厳朝に出仕させ、後醍醐天皇とは一線を画していました。そのせいか、親房は鎌倉幕府のことを絶対に悪く言いません。それどころか鎌倉幕府について「物事をよく知らんやつらは最近は武士の世の中になって朝廷が衰えたなどと言っているが、そもそも頼朝という人も泰時という者もいなければ世の中はどうなっていたか」と褒め倒しています。滅亡に関しても「そもそも七代も続いたことの方がすごくね?」と幕府の悪政のせいであるとはしていません。いや、理由がないと滅びないんですけど、親房先生・・・。

 

まとめると「正統」という概念を作り上げた北畠親房が活躍した時代というのは天皇家が二つに分裂してしっちゃかめっちゃかになっていた時代だったのです。そこで問題になるのが「どちらが正しい天皇」つまり「正統の天皇」か、ということになります。

 

「正統」という言葉自体は皇位継承の原理ではなく、単に「嫡流」という意味で使われています。親房は「正統」という言葉に肉付けをしていったのです。

 

親房が「神皇」の「正統」という概念をどのように作り上げていったのかを考えたいと思います。