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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々ー貞常親王

後花園天皇の弟宮です。

 

貞成親王後花園天皇の親子関係というのはかなり複雑だったと思います。『椿葉記』で「実の父母を大事にしなさい」ということを著書一冊丸々使って述べています。しかし後小松院が存命中にそんなことができるはずもなく、そもそも『椿葉記』は後花園天皇の手に渡ることはなかったように思われます。後小松院崩御後には貞成親王に宛てた手紙で切々と後小松院崩御の悲しみを訴えかけています。内心大喜びの貞成親王とは大違いです。以前にも述べましたが、後小松院と後花園天皇はうまくいっていたようです。それが貞成親王には我慢できない。

 

この両者はものすごくアンビバレントな関係であったのではないか、と思います。その複雑な関係が噴出したのが貞常王の親王宣下です。貞成親王の第二皇子の貞常王が元服し、親王宣下を受けることが決定しました。しかし穏やかならぬ噂が流れ、親王宣下は中止になります。それに対し貞成親王が不満を言い立て、調査の結果広橋兼郷らがデマを流布したとして遠流となります。実際には日野重子の嘆願により遠流は取り消され、洛中からの退去処分となりますが、兼郷は完全に失脚し、赦免もなされないまま死去します。

 

これについては兼郷が後小松派で、後花園天皇による貞成親王への太上天皇宣下を快く思わなかったため、デマを流した、と考えられていますが、仔細に兼郷と後花園天皇の関係を見るとその疑いは晴れます。

 

禁闕の変後花園天皇が命からがら内裏から脱出したのちに逃げ込んだのが内裏の裏辻にあった正親町持季の邸でした。しかしそこでは近すぎてまずい、と広橋兼郷邸に移動しています。この緊迫した場面で移動場所に選ばれる人物が後花園天皇と疎遠であるとは思えません。後花園天皇の信頼はかなり厚かったと考えるべきです。

 

そのデマの内容は貞成親王後花園天皇を退位させ、貞常王に譲位させるというものだったと小川剛生氏は「伏見宮家の成立 -貞成親王と貞常親王-」(所収:松岡心平 編『看聞日記と中世文化』(森話社、2009年)で言っていますが、従いたいと思います。問題はそれがデマだったか、です。

 

 

看聞日記と中世文化

看聞日記と中世文化

 

 

私は兼郷が後花園天皇貞成親王の微妙な関係を吹聴したのではないか、と考えています。それはもちろん後花園天皇の内意をよく表したものだったのでしょう。貞成親王にその気が無くても後花園天皇からすれば貞成親王が自分よりも貞常王に皇位継承の望みを託しているように見えたとしても不思議ではありません。

 

こう考えると色々なことが腑に落ちるのですが、その辺はいずれきちんとした形で論じたいと思っています。

 

で、本題です。後花園天皇は肝心の貞常親王をどう思っていたか、ですが、貞成親王のような複雑な関係とは異なり、かなり可愛がってはいたようです。禁闕の変の直前も後花園天皇は貞常王の和歌の添削をしてやったり、応仁の乱勃発後には貞常親王に「伏見に逃げ出したいが幕府にバレると止められるのでうまくやってくれないか」と伏見脱出の手助けを頼んだりしています。後花園上皇が結局伏見に隠棲という無責任な逃亡をしなかったのは案外貞常親王が諌めたのかもしれません。

 

後花園天皇の死の状態を詳しく『山賤記』という随筆にまとめています。

 

皇子を一人しか儲けなかった後花園天皇とは異なり九人も皇子を儲けていますので、後土御門天皇に万一があっても安心だったことでしょう。多くの法親王を輩出して寺院との関係も強固にするのに役立っています。

 

彼自身父や兄と同様に諸芸に長けた人物だったようです。しかし彼らのような衒いの強さや自己顕示欲は受け継がなかったようです。だから貞成親王後花園天皇のような強烈な個性の中で両方から信頼されたのでしょう。