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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

九州南朝方の中心ー征西将軍宮懐良親王

征西将軍宮懐良親王といっても知らない方も多いのではないでしょうか。

 

懐良親王後醍醐天皇の皇子です。第何皇子かはわかりません。なんせたくさんいますから。1329年生まれですから、かなり下の方です。後醍醐天皇の皇子の中でも没年はかなり遅い方の1383年です。母は権大納言三位局で二条為道の娘です。

 

以上はウィキペディア後醍醐天皇の項目です。

後醍醐天皇 - Wikipedia

 

懐良親王といえばやはり征西将軍として九州方南朝勢力の最盛期を作ったこと、「日本国王良懐」として明の洪武帝に使者を送ったこと、などがその事績としてあげられます。

 

懐良親王が明に使者を送ったのか、あるいは偽使だったのか、というのは議論がありました。ただ偽使だった、というのは、皇室の藩屏たる親王が中国に称臣朝貢をするはずがない、という前提がなければ成り立ちません。

 

『明実録』を見る限り懐良親王はかなり迷っているのは事実です。1回目の使者は或いは斬られ、或いは拘禁された上で追い返されています。しかし2回目の使者の趙秩の説得に応じ、趙秩を斬ろうとしていた態度を改めて称臣朝貢をすることにした、と書いてあります(『明太祖実録』洪武四年十月癸巳条)。

 

問題は洪武帝の使者が懐良親王日本国王冊封するために来日した時にはすでに博多は今川了俊の手に落ち、彼らは京都に連行され、細川頼之の取り調べを受けたことです。ここでの見聞もかなり面白いのですが、そこでは「持明」と「良懐」が争っていること、「持明」は年少なので臣下が国権を擅(ほしいまま)にしていることなどが述べられています、「持明」は後円融天皇でしょうが、国権を擅にする臣とは同い年の足利義満では無く細川頼之でしょう。頼之はかなり厳しく明使を取り調べたようです。それはそうで、明と征西将軍府が結びついて北朝を打倒に来れば、日本は明軍の侵攻を受けて明を後ろ盾にした征西将軍府および南朝の天下がやって来る恐れがあるわけです。荒唐無稽な感じがしますが、頼之にとっては排除できない可能性でしょう。

 

頼之も明に使者を送りますが却下されます。当たり前です。当時は「人臣に外交なし」ということで、臣下である頼之が外交主体になれるはずがありません。

 

肝心の懐良親王も一旦は少弐冬資の暗殺に端を発した今川了俊陣営の混乱もあって勢力を盛り返すかと思われましたが、博多を回復することもかなわないまま、晩年の懐良親王菊池武光や後継者の良成親王とも離れて筑後の山中に引き退きます。どこで薨去したかは不明です。

 

長慶天皇の時代に後征西将軍宮が南朝から離反している、と五条氏から訴えがあり、菊池武朝がそれについて弁解する、という事件を起こしています。これを考慮すると征西将軍府の自立傾向は南朝から見ても看過できないこと、懐良親王は自立化傾向から距離を置いていたことが伺えます。

 

懐良親王はかなり厭世的な傾向が強く、最盛期にあっても出家遁世を願うような気弱なところがありました。新葉和歌集に載せられた懐良親王宗良親王の和歌の贈答からもそれがわかります。

 

現在残る懷良親王の筆跡を見ても、非常に神経質で几帳面な人柄が伺えます。

 

参考文献として私の書いた論文を挙げておきます。

「明初洪武期の日本国王」(『日本思想史研究会会報』8号、1990年)pp23~35

「初期日明関係に見る東アジア国際秩序の構築と挫折」(『新しい歴史学のために』210号、1993年)pp19~29

日本国王号成立をめぐって」(『日本思想史研究会会報』20号、2003年、)

pp284~296

 

北方謙三氏が小説化していらっしゃいます。小説ですので事実と違うところが当然あるのですが、非常に綿密に調査・研究していらっしゃいます。一読をお勧めします。