『看聞日記』における足利義教ディスについて5
今回は最終回の「将軍犬死」です。嘉吉元年六月二十五日条です。
これ、長いので一部だけの引用にとどめます。
所詮赤松可被討御企露顕之間、遮而討申云々。自業自得果無力事歟。将軍如此犬死、古来不聞其例事也。
これ、私なりの訳をつけるとこうなります。
結果として赤松を討たれようという御企みが露顕したので、それを止めるために討ちもうした、ということだ。自業自得の結果であり、仕方がない。将軍がこのような犬死をしたのは、古来その例を聞いたことがない。
ちなみに「露顕」と書こうと思って「ろけん」とすると「ロケンロール」が候補に出てきて微妙にイラっとします。
もう少し分かりやすく意訳すると「義教の死については、赤松を討とうとしてはったから、赤松もしゃーなく殺したらしい。自業自得としか言いようがないな。将軍がこんな犬死って聞いたこともないわ」となります。
こうなりますとディスというよりは嘆きっぽく見えますね。「ほら、いわんこっちゃない」的な。
東御方が追放された時に「赤松身上事」について触れています。赤松がヤバい、というのはかなり周知の情報だったことは間違いありません。
これを貞成の義教ディスと受け取りがたいのは、尹子が貞成室の幸子と仲が良かったからです。
南御方室町殿参。上様御見参。夜前則被替御姿為黒衣。御戒師鹿苑院。上臈為比丘尼。北向ハ懐妊之間、無除髪。其外御子出生御傾城達、可然女中皆為尼、上様軈欲有退出之処、管領堅申留云々。盛者必衰之理眼前也。悲涙之外無也。
幸子が「上様」「上臈」こと尹子の見舞いにいったことが記されています。「北向」こと日野重子は懐妊していたので出家することは免除されました。他はことごとく尼となりました。
尹子は室町殿を退出する意向だったようですが、細川持之が押しとどめています。持之は義教時代の処分を撤回していますが、義教がいかに反発を買っていたかを熟知していたので身の危険を案じたのでしょうか。あるいは下手に奪取され、人質となるのを案じたのでしょうか。
持之は伊勢貞国の屋敷にいた足利千也茶丸を室町殿に迎え、義教の兄弟を鹿苑院に迎えて監視をつけています。「野心之人」が奪取することを警戒してのことです。実際足利直冬の孫の足利義尊が赤松満祐に担ぎ上げられています。
貞成は尹子の運命について「悲涙の他はない」と言っています。