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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園はなぜ後花園なのか3

後花園はなぜ後花園なのか。

 

前回までの話をざっくり言いますと、

後花園天皇の侍読であった高辻継長が「後文徳」「後花園」を提出。

多数派が「後文徳」を推す。「文道聖徳」ということが理由。「後花園」に関しては「花園」に由緒のないこと、花園天皇の子孫ではないこと、訓みは優美だが今必要とされているのは現代の指針であること、などから「後文徳」がふさわしい。

 

後花園天皇の側近中の側近であった甘露寺親長だけが「後花園」を推す。

 

多数決の結果「後文徳」に決定。

 

一条兼良「ちょっと待ってちょっと待ってお兄さん、後文徳って何ですの。諡号に後の字つけたらだめですやん」(ちなみにこれのために初めてラッスンゴレライみましたが自分の頭の硬さを思い知る結果にだけなりました)

 

多数派「いや諡号追号って違いないですやん。つーか変える方がまずいっすよ」

親長「後花園」

 

後土御門天皇の介入あり(推定)

 

二条持通「変えたらあかん」

多数「後近衛(関係ないけどな)」「後土御門(今の皇居の名前やけどな)」「後花園(関係ないけどな)」

親長「後花園」

兼良「後花園」

後花園に決定(←イマココ)

 

ここで疑問が浮かびます。なぜ親長は一貫して「後花園」を推し続けたのでしょうか。勧修寺教秀のように「訓みが優美」だからでしょうか。

 

親長「花園って美しい名前˚✧₊⁎❝᷀ົཽ≀ˍ̮ ❝᷀ົཽ⁎⁺˳✧༚」

という訳はありません。後花園天皇に終始仕えており、禁闕の変では太刀をふるって、それこそ命をかけて後花園天皇を守り、中風に倒れた後花園天皇法皇)は親長に抱きかかえられながら絶命しています。後花園天皇本人の考えていることをもっともよくわかっている人物と言っても過言ではないでしょう。

 

それを解くヒントが『看聞日記』永享六年三月二十四日条にあります。ここで貞成親王後花園天皇に『誡太子書』を献上しています。

 

詳しくはこちらのエントリで取り上げています。

sengokukomonjo.hatenablog.com

興味深いのが、わざわざ伏見宮家から献上されていることです。これは後光厳皇統に『誡太子書』が伝来していなかったことを示しています。

 

この『誡太子書』は花園上皇後醍醐天皇の皇太子となった量仁親王光厳天皇)に贈ったものです。「徳も功績もないのに皇太子の座にいることを恥じないということがあろうか」「天皇家がずっと続いてきたから日本はすごい、と言っている愚か者どもの発言に日本の知性の劣化が現れている」「今のままでは日本は崩壊する」と厳しい言葉を投げかけた花園上皇の『誡太子書』ですが、光厳天皇はそれを崇光天皇に贈ったことでしょう。それは崇光天皇から栄仁親王貞成親王と受け継がれていきました。

 

一方後光厳天皇は急遽即位したため、それを引き継ぐ機会がなかった、としても不思議ではありません。しかも伏見ー後伏見と受け継がれてきたわけではなく、傍系の花園から光厳に贈られてものであって、レガリアとしての価値は認められていなかったのでしょう。後光厳皇統に伝来していれば、わざわざ伏見宮家から献上するには及ばないはずだからです。

 

花園天皇の学問や政治への厳格な姿勢に後花園天皇は共鳴するところ多かったのでしょう。後花園天皇も学問や芸術、そして政治に一心に打ち込んでいきます。

 

ただ花園天皇と異なり、強大な権限を手にした後花園天皇の政治手法はいささか強圧的なところがあり、結果的に多くの敵を作り、それに対しより強圧的に臨むという悪循環を引き起こしてしまう点がありました。結局は自分の正義を押し付け、反発を生むということになってしまったことは事実です。

 

後花園天皇はその死の直前まで政治に深く関わり続け、戦い続けた天皇でした。彼の姿勢は実は花園天皇に近似しています。『誡太子書』では鎌倉幕府に実権を握られていることを残念に思う記述があります。これは例えば北畠親房の『神皇正統記』と比べると、その特異さが浮き彫りになります。親房は幕府を否定しません。彼にとっての理想の姿は鎌倉幕府によって補佐された朝廷でした。花園天皇鎌倉幕府に補佐されている現状を残念に思っています。まあそれもそのはずで、親房がいたころの鎌倉幕府大覚寺統びいきで、持明院統、特に後伏見上皇とその側近の京極為兼には非常につらく当たっていました。京極派の歌人であった花園天皇にとっては鎌倉幕府の介入は許せないものだったようです。特に大覚寺統の庇護者であった連署金沢貞顕に対する憎悪心は尋常ではありません。

 

後花園天皇の戦いを側近として支えていた親長が、後花園天皇花園天皇への思いを知らないはずがありません。それは後花園天皇の侍読として仕えた高辻長継とて同じでしょう。つまりは「後花園」に長継がこめたメタファーを親長のみが正しく読み取った、ということが言えるでしょう。長継としては「後花園」の対抗を先例のない「後文徳」にして事実上「後花園」の一本釣りを狙ったのではないでしょうか。しかしその目論見は失敗し、「後文徳」が選ばれてしまった。そこで兼良が出てきて話をひっくり返し、後土御門天皇の介入を経て新たに「後近衛」「後土御門」「後花園」の勝負に持ち込んだ、と。しかし此の期に及んで「後近衛」「後土御門」を推す公家がいることにある意味驚きです。空気読めよ、と。しかし実際には「後近衛」を推した中院通秀や「後土御門」を推した日野勝光、三条公敦もわかっていたのではないか、と思います。しかしホンネは勧修寺教秀の、何もいっていない長広舌に尽きると思います。「勝手にしやがれ」です。