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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

称光天皇の追号の由来

今日は称光天皇について考えてみました。

 

称光天皇は我らが後花園天皇の一つ前の天皇です。皇女は残せたのですが、皇子を残せなかったため、あえなく皇統が断絶してしまいました。

 

後小松はそこで伏見宮家から養子を迎えて皇統を存続させることを選択します。私の見るところでは、後小松は当初常盤井宮木寺宮から養子を迎えることを考えたのではないか、と思っています。しかし実際には伏見宮一択でしかないわけです。

 

後小松は足利義教に対して後花園を養子として迎えて、後光厳皇統を断絶させないように約束させます。

 

ここ、重要です。

 

どういうことか、といえば、後小松は後光厳天皇の孫に当たります。後光厳天皇の子孫、つまり後光厳皇統は称光天皇崩御によって断絶してしまうわけです。

 

一方、後光厳天皇の兄の崇光天皇の子孫は伏見宮家となっていましたが、崇光天皇観応の擾乱で引きずり降ろされた経緯があり、自分とその子孫が「正統」な皇位継承者である、という意識を持っていました。その執念は引き継がれていったのです。

 

後小松からすれば後光厳皇統断絶の危機です。もし皇統が断絶すれば自分は「正統」(しょうとう)の天皇ではなくなります。「正統」の天皇となるためには子孫が皇位を継承し続けるしかありません。そこで後小松が採用したのが養子です。これは義持の代から決定していたことで、称光天皇が皇子をもうけないまま崩御した場合には伏見宮家から養子を迎えることは決定していました。ただ義持が死去して義教が継承したため、この約束が履行されるかどうかは不透明になっていました。したがって後小松にとって一番怖いのは後光厳皇統の断絶ということになります。

 

とりあえず正長元年(1429年)七月十六日の段階で義教と後小松の交渉の末に伏見宮家の若宮を後小松の養子とすることが決定しました。

 

七月二十日、称光天皇崩御します。

 

翌日には追号の儀が持ち上がります。結局「称光院」という追号に決定するのですが、これについて一条兼良は『後成恩寺関白諒闇記』において次のように説明します。

廿二日為清朝勧進、於前関白直盧被定之。万里小路大納言、勧修寺中納言、右大弁宰相等相議、奉号称光院云々、順徳院御号時有淳陽号〈取淳和陽成之一字置上下〉、仍今度就此儀一両勘進之内加称光〈称徳光仁一字置上下〉、直依院仰進勘文云々、儒中猶存先蹤、勘申雖勿論、淳陽既不被採用、定有子細歟、今度難資准的歟、議奏之次第如何、理可然乎、但称光無殊難歟云々 

 ここではざっくりいえば、「称光院は称徳天皇光仁天皇から一字ずつ採っている」ということになります。

 

私はこれは「ほんまかいな」と思っています。

 

なぜかと言えば、称徳天皇光仁天皇と言えば、天武皇統が断絶して天智皇統に戻っていった、ということになります。「称光院」をプッシュしたのは後小松であることは様々な史料から明らかなので、もし後小松が称徳と光仁から一字ずつ採った、というのであれば、彼は皇統の移動を認めている、ということになります。しかし彼の動きを見る限り事実は反対です。彼は皇統の移動の可能性を阻止しようと必死なのです。その彼が皇統の移動をイメージするような名前をつけるはずがないでしょう。そもそも先例にうるさい当時の朝廷が、前例のない二つの天皇の名前を組み合わせる、という追号を許可するでしょうか。

 

ここで想起されるのが「崇光院」です。「崇光院」は村田正志氏が「けだし光厳院を崇拝するという意味であろう」と『證註椿葉記』の中でおっしゃっています。光厳院の「正統」な後継者を主張した「後光厳院」という追号は本人の遺詔ですが、後光厳よりもだいぶ長生きした崇光は光厳の正統な後継者であることを示すために「光」の字を入れたのでしょう。「称光院」も同じことが言えるのではないでしょうか。

 

後小松は当初これを追号ではなく諡号にしようと考えていたようです。光厳の後継者であることを主張するための方策ではないでしょうか。しかし諡号案は兼良の反対で立ち消えになります。兼良の言い分は、子が親の顕彰をするのは有りだが、親が子の顕彰をするのは無し、ということです。この辺は『薩戒記』に詳しいです。

 

二条持基満済と「後何院」ではだめなのか、とか、「後何院」は後小松が嫌がっている、とか、後小松が小路にちなんだものはだめだ、といっているとか、いろいろ困っているようです。ちなみに「称光院」の他に候補に上がったのが「西大路院」です。

 

しかし現実は後小松にとって氷のように冷たいものでした。後小松の崩御後には、後小松と折り合いの悪かった義教によって後小松の決定はことごとく覆されていきます。後光厳皇統も兼良がこの文章を書いた段階では断絶したも同然と考えられていたのでしょう。そして当初は後小松の遺詔を守ろうとしていた兼良は、伏見宮家の宮廷での発言力の強化とともにその立場を翻します。そのような兼良の立場を表しているのが、称徳から光仁への皇統の移動を表したものとして「称光院」を位置付けた議論ではないでしょうか。