足利直義裁許状(『朽木家古文書』国立公文書館)
『朽木家古文書』より足利直義裁許状です。
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まずは釈文です。
佐々木四郎右衛門尉行綱女子尼心阿
与同出羽五郎義信相論、近江国高嶋
本庄内案主名并後一条地頭職事
右就三問三答訴陳状欲尋決之處、去□(々)
年〈暦応二〉九月十一日両方出連署和与状畢。如
彼状者、和与、佐々木四郎右衛門尉行綱女子□(尼)
心阿代浄圓与同五郎義信相論近江国高
嶋本庄内案主名田畠并後一条地頭□(職)
事、右地頭職者、心阿帯関東安堵御下
文・同下知・六波羅下知以下次第手継券□(相)
傳知行之處、去建武四年正月廿日義信打
入當所致乱妨狼藉之由訴之。義信亦備
関東安堵外題證文等知行之旨論之。
既雖及三問三答訴陳義信為一族可和
与之由令申之間、以別儀於後一条地頭□(職)
者、永代避渡干義信也。至案主名
心阿可令領掌云々。如同日義信状者□(子)
細同前。就之為元弘収公地否尋問證人
伯耆入道々本佐々木源三左衛門尉秀時之
處、如同十月十日道本秀時請文者、案□(主)
名并後一条地頭職事非元弘収公之□(地)、
亦将相傳當知行無相違云々〈各起請詞載之〉者、和与之
上者、不及異儀歟。然則守彼状、相互可致
其沙汰之状下知如件。
暦應四年三月十七日
源朝臣(花押)
長くて難しいのですが、裁判の判決です。
読み下しを挙げておきます。
佐々木四郎右衛門尉行綱女子尼心阿と同出羽五郎義信の相論、近江国高嶋本庄内の案主名并びに後一条地頭職の事
右三問三答訴陳状に就いて尋決を欲すの處、去々年〈暦応二〉九月十一日、両方連署和与状出し畢。彼状の如くんば、「和与、佐々木四郎右衛門尉行綱の女子尼心阿代の浄円と同五郎義信が相論す、近江国高嶋本庄内の案主名田畠并びに後一条地頭職の事、右地頭職は、心阿が関東安堵御下文・同下知・六波羅下知以下次第手継券を帯び、相伝知行の處、『去る建武四年正月廿日、義信当所に打ち入り、乱妨狼藉を致す』の由これを訴う。義信も亦、関東安堵外題證文等を備え、知行の旨これを論ず。既に三問三答の訴陳に及ぶといえども、義信は一族の為、和与すべきの由これを申さしむ間、別儀を以って後一条地頭職においては、永代義信に避り渡す也。案主名に至りて心阿領掌せしむべし」と云々。同日義信状の如くんば、子細同前。これに就いて「元弘収公地たるや否や」を証人の伯耆入道道本・佐々木源三左衛門尉秀時に尋問するの處、同十月十日道本秀時請文の如くんば、「案主名并びに後一条地頭職の事、元弘収公之地にあらず、はたまた相伝当知行相違なし」と云々〈各起請の詞、これを載す〉てえれば、和与の上は、異儀に及ばず歟。然れば則ち彼状を守り、相互に其沙汰を致すべきの状、下知件の如し。
暦應四年三月十七日
源朝臣(花押)
登場人物です。原告が心阿さんです。被告が朽木義信さんです。心阿の代理人が浄円です。証人が道本さんと佐々木秀時さんです。
で、和与状を保証する裁許状です。今風に言えば和解です。
心阿が鎌倉幕府の安堵の下文と下知状と六波羅下知状を持って相伝知行していたところ、建武四年に義信が討ち入ったと訴えました。義信も関東安堵外題の証文を持ち出して知行する権利があることを主張します。裁判になって三問三答の訴状と陳状のやり取りをした結果、義信は心阿と一族なので和解したい、というので、後一条地頭職は義信に引き渡し、案主名は心阿が獲得することになった、ということです。義信も同じことを言っているので、これがそもそも元弘収公地、つまり後醍醐天皇によって鎌倉幕府の処分が無効になった案件ではないか、ということで証人二人を呼んで調べたところ、元弘収公地ではないことがわかったので、和解した以上はなんの問題もない、ということを述べた裁許状です。
元弘没収地というのは、後醍醐が鎌倉幕府によって行われた元弘年間の土地に関する処分を無効としたことを意味します。そして尊氏は後醍醐の元弘土地没収令を無効にして建武年間に後醍醐によって取り上げられた土地を返付するという命令を出しています。
ここで足利直義が元弘収公地であるか否かをやたら気にしている理由がよく分かりません。いや、そもそも両人で納得してんだったら元弘収公地であろうとなかろうと関係ないやん、と思うのですが、そうではないようです。誰か元弘収公地とその返付に詳しい人、教えてください。
元弘収公地だったとしたら、何が不都合なのか、ということを考えてみましたが、私の頭では分かりません。考えられるのは義信が心阿の土地に介入したのが建武四年なので、義信が尊氏による元弘収公地返付令に乗っかっていた、ということくらいです。で、もしそうだったら和解してはダメなんでしょうか、ということです。