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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座三月第二回「院政の開始と展開」予告3

三月十四日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座のお知らせです。

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白河法皇が死去したことで鳥羽上皇院政が始まります。

 

まず彼がやったことは泰子の入内です。

 

泰子というのは藤原忠実の娘です。忠実は白河の頭越しに泰子を入内させようとして白河の逆鱗に触れ、失脚しました。哀れを留めたのは泰子で、婚期を完全に失ってしまっていましたが、鳥羽は泰子を入内させます。彼女はすでに中年を超えていましたが、鳥羽と摂関家のパイプ役を務め、鳥羽院政に大きく貢献します。

 

それとともに忠実も内覧に復帰し、摂関家との協調関係は元に戻ります。

 

鳥羽の時期には伊勢平氏が台頭してきます。これは河内源氏の自滅と表裏一体です。

 

鳥羽の時期には王家領荘園の集積が本格化します。鳥羽の時期に集積された荘園群はのちに八条院領となり、王家領荘園の中核を占めることになります。

 

また白河の後ろ盾を失った閑院流の璋子に代わり、院近臣の藤原長実の娘の得子を寵愛し、体仁親王を産ませます。さらにそれに飽き足らず体仁親王崇徳天皇の猶子とすると、早々に譲位させます。その時に体仁親王を「皇太弟」と書き換え、崇徳の院政の目を摘んでしまいました。

 

ここから崇徳は実は白河と璋子の子で鳥羽から見れば叔父にあたる為「叔父子」と呼んで忌み嫌った、という話がありますが、現在ではあまり信憑性があるとは考えられていません。というのも白河が死去した1129年から近衛が即位する1141年までは非常に長く、もし鳥羽が「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたならば、「叔父子」の同母弟の雅仁親王に譲位させることができたはずで、「叔父子」の説が流布されはじめるのは近衛の体調が悪化し、後継者も絶望的になった段階で、崇徳の皇子で近衛の後継者の候補であった重仁親王への皇位継承が現実のものとなりつつあった1150年代になってからであろう、と美川圭氏は説明します。

 


院政 もうひとつの天皇制 (中公新書) [ 美川圭 ]

 

鳥羽のもう一つの功績は北面の武士を整備士、延暦寺の強訴を跳ね返したことです。

 

1147年、祇園社ともめた平清盛に対し延暦寺の大衆が強訴を仕掛けます。しかし鳥羽は大量の軍勢を配置し、自ら閲兵、督戦を行うことで武士の士気を高め、強訴を跳ね返します。

 

その鳥羽にとって頭の痛い問題が藤原頼長でした。頼長は「日本一の大学生」と言われた学者であり、厳格な律令の実行を目指す強烈なキャラクターは、当然摂関家というエリート意識によって院近臣と激しく対立していくことになります。

 

さらに近衛の皇后に頼長養女の多子と忠通養女の呈子が並び立つ時の揉め事で忠通と頼長との関係は修復不可能になります。

 

1155年、予てから病気だった近衛天皇が死去します。後継者候補として上がったのが、鳥羽法皇重祚八条院暲子内親王の即位なども模索されたようですが、最終的に崇徳皇子の重仁親王と雅仁親王の皇子の守仁親王が有力となり忠通が雅仁親王から守仁親王へという道筋を主張してこれが通りました。

 

忠通は崇徳に娘を入れましたがうまく外戚になれず、重仁が即位して崇徳院政が始まると非常に困ったことになってしまいます。そこで得子(美福門院)をうまく説得して守仁親王への道筋を作ることに成功します。

 

忠通にとって邪魔な相手は弟の頼長と崇徳上皇ということになります。

 

鳥羽が病に倒れた1156年、忠通は巧みに頼長と崇徳を陥れることに成功し、自らの権力を盤石にしたかに見えました。しかし忠通の目論見はうまくいかず、保元の乱を招くことになります。

 

何があったのでしょうか。そこのところを講座ではお話ししたいと思います。

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