室町時代の年号
例えば応永という年号があります。何と35年。これは前近代では最長不倒記録です。現在でも昭和(64年)、明治(45年)に次いで3位につけています。
応永の年号は疫病の流行により改元されています。出典は『唐会要』巻六七です。
足利義満はこの時明の洪武帝を慕って「洪」の字を入れるように動きます。この辺は今谷明氏の『室町の王権』に紹介されています。
しかしこれは公家による反発もあって流れます。
その後35年も続いたことについては今谷氏は「洪徳」が流れたことによって改元をさせない、という方向性で朝廷を圧迫した、としています。ただ義満が死去し、義持が継承した段階でその辺はクリアされるので、私はウィキペディアに載せられている二つの説の中の「義持が応永に愛着を持っていた」という方が正しいと思います。
義持は応永元年に将軍職についています。そして彼の死去によって改元がなされるので、応永は義持の治世を明示するものだったのです。年号の存在意義はそこにあります。一人の生身の人間が時間を支配する、ということを示しているのです。
義持が死去し、義教が家督を継承すると幕府は代替わり改元を要請しますが、当時朝廷を掌握していた後小松上皇はこれを拒否し、称光天皇の代替わり改元という名目で正長に改元させます。出典は『礼記』です。
これはおかしい話で称光天皇はすでに在位16年を超えていました。そして改元後わずか3ヶ月で崩御してしまいます。
このころは年号を支配していたのは幕府だったと言えるでしょう。
正長は2年後には永享と改元されます。『後漢書』から採用されています。
一応後花園天皇の代替わり改元ということですが、2年経過しています。むしろ半年前に将軍に就任した足利義教の代替わり改元と見るべきでしょう。
この辺は幕府の都合で改元されている、と考えられます。
永享は義教の年号ですが、永享13年、西暦1441年の干支が辛酉にあたり、辛酉革命のために嘉吉に改元されています。出典は『周易』です。義教はその辺はしっかりと改元させています。
このころは後小松院はすでに亡く、後花園親政ですが、朝廷の主導権は義教が掌握している時期です。
義教死去後の年号についてはまた述べたいと思います。