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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座三月第三回「後白河院政」3

オンライン日本史講座、連続講座「中世・近世の皇位継承」の3月21日午後8時30分からの「後白河院政」です。後鳥羽院政を分離しました。その分一回伸びるかも、です。

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建春門院平滋子の死去は、清盛と後白河のパイプの一つが失われてことを意味します。もともと密接な関係があればそれほど問題にはならないのでしょうが、もともとはソリが合わない両者のこと、一人の死去で大きく事態が変わることになります。

 

そのころ院近臣の中に西光という人物がいました。字の「西」を見て何かを感じた方、正解です。阪神タイガース西勇輝投手、ではありません。西投手には頑張ってほしいものです。

 

西光は信西の側近だった男です。信西が逃れて自らを生き埋めにすることを命じた相手が西光でした。

 

後白河の側近にはそういう一癖も二癖もある人物が集まっていました。例えば藤原師長という人物がいます。「長」という字でお気付きの方もいらっしゃるでしょう。

 

そうです。藤原頼長の息子です。

 

また静憲という僧が護持僧でした。お気に入りの澄憲という僧もいます。兄弟です。「憲」という字を見て思いつく人はいませんか。

 

そうです。藤原通憲こと信西です。彼らは信西の息子です。保元の乱平治の乱で非業の死を遂げた人物の関係者が後白河の周囲を囲繞していたのです。

 

他に藤原成親藤原信頼の側近です。ここまで揃えるとこれは偶然ではなく、むしろそういう人物を選んでいる、という気もしてきます。本当のところはわかりません。

 

その院近臣の一人の西光が延暦寺ともめました。西光は平氏の武力を比叡山攻撃に向けようと企図します。それに清盛が反発し、鹿ケ谷事件が起こりました。

 

鹿ケ谷事件は後白河による平氏滅亡の企てが露見して清盛の反撃を招いた、というのがよく知られている図式なのですが、院近臣にどの程度平氏を滅ぼすつもりがあったのか、ということを考えるべき、と言われることもあります。

 

少なくともこの事件の結果、清盛は後白河の近臣を排除することになりました。これで立場の悪化した人物がいます。清盛の息子で後白河の近臣であった平重盛です。『平家物語』では堂々と清盛の横暴を諌めるかっこいい役回りですが、現実の重盛は「早く死にたい」と漏らして両者の間で右往左往する人物です。結局義兄の成親すら救うことはできませんでした。

 

重盛の死後、その遺領をめぐるトラブルが起こります。後白河が重盛に与えた所領をすべて後白河が処分してしまいました。また近衛基実の遺領は基実妻で基通の後見役であった盛子が管理していましたが、盛子の死後、後白河は基実の遺領を基通にではなく基実の弟の松殿基房に与えてしまいます。

 

これに清盛は激怒してついに治承三年の政変を引き起こします。後白河院政の停止です。

 

清盛は隱遁先の福原から上京すると後白河を幽閉し、院政を停止します。後白河に面会を許されたのは静憲と澄憲だけだったといいます。松殿基房は関白を辞めさせられ、代わりに近衛基通が就任します。

 

その上で高倉天皇を退位させ、高倉院政を作り上げます。皇位はもちろん高倉と清盛の娘徳子との間に生まれた言仁親王です。安徳天皇といいます。

 

高倉院政は前途多難でした。若年の院と不慣れな摂政、そしてやる気のない内大臣平宗盛。宗盛は後白河と比較的関係が良好だったため、清盛の強引な政権運営に反発していたとも言われます。

 

結局清盛は福原から色々と政治に介入する必要性が出てきました。いわゆる平氏政権というのはここに発足した、と言われます。

 

この見方を六波羅幕府、あるいは福原幕府と見る見方が存在します。つまり平氏政権は立派に幕府だった、というのです。六波羅か福原か、というのはその幕府のトップが宗盛か清盛か、という問題です。

 

高倉は譲位後に厳島行幸を計画します。しかしそれに反発した園城寺が後白河と高倉を奪取しようとする計画が露見します。

 

さらに以仁王の挙兵があり、以仁王は直ちに鎮圧されたものの彼の令旨が全国に拡散し、清盛にとっては放置できない問題となります。

 

清盛は福原遷都を強行しますがそれもうまくいかず撤回され、手詰まりの中、高倉が死去し、清盛は止むを得ず後白河院政の復活に踏み切ります。

 

その中で源頼朝が挙兵し、平氏は頼朝に敗北します。その中で清盛は熱病で死去します。その時に彼は遺言で頼朝の首を自分の墓前に供えるように命じますが、それが平氏の滅亡につながっていきます。その辺は木曜日の午後8時30分からの講座をお楽しみに。そもそもなぜ頼朝の挙兵はあそこまで成功したのか、とか、木曾義仲はなぜ急速に没落したのか、ということも合わせて言及していきたいと思います。

 

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