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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座四月第一回「鎌倉幕府と天皇家の分裂」1

オンライン日本史講座四月第一回です。4月4日午後8時30分からです。

4月4日分の第13回の「南北朝室町の皇位継承」の部分からお越しください。

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承久の乱が終わりました。

note.muこれの続きです。

 

後鳥羽上皇承久の乱は極めて大きな代償を朝廷に払わせることになりました。

 

北条泰時は京都を占拠すると戦後処理に取り掛かります。六条河原で後鳥羽の勅使と対面し、後鳥羽は義時追討院宣の取り消しを伝えます。その後彼らは六波羅に入り、戦後処理を本格化させます。

 

残敵の掃討、勲功の審理、鎌倉への報告などやらねばならない戦後処理は山積しています。

 

泰時からの報告を受けて鎌倉では大江広元が指示内容を文書にまとめ、京都に送られました。この内容を受けて実際の後鳥羽らに対する戦後処理は遂行されたと考えられます。

 

まず天皇の廃位です。後鳥羽が擁立していたのは順徳皇子の懐成でした。順徳と九条良経の娘の立子の所生です。後鳥羽としては九条道家を摂政とするために順徳から譲位させたのでしょうが、幕府は廃位を決定し、伝達します。藤原頼経の従兄弟にあたるため、この決定は衝撃を京都にもたらしますが、幕府としては後鳥羽関係者を皇位から排除することが最低条件だったようです。

 

廃位となったため、天皇としての在位は認められず、太上天皇号も奉られませんでした。九条廃帝と呼ばれ、外伯父の九条道家に引き取られ、11年後に17歳で死去します。在位78日は最短の在位日数です。明治3年に仲恭天皇という諡号が定められ、歴代の天皇に加えられました。

 

仲恭天皇に変わって践祚したのは後鳥羽の兄にあたる行助入道親王の皇子茂仁王でした。後堀河天皇です。行助入道親王は俗名を守貞親王といい、安徳天皇の皇太弟として壇ノ浦まで連れ去られ、帰還後は後鳥羽の警戒のもとで最後は出家に追いやられた親王でしたが、ここに来て治天の君となることになりました。太上天皇号を奉られます。後高倉院といいます。在位経験のない太上天皇号は史上初めてです。二例目が後花園天皇の父親の貞成親王後崇光院)です。

 

後鳥羽は隠岐島へ、順徳は佐渡島へ、土御門は土佐国へそれぞれ流罪となります。もっとも土御門に関しては承久の乱への関与の度合いを考慮された、とされますが、『吾妻鏡』では流罪ではなく、自らの意思での遷幸ということになっています。もちろん私は疑っています。土御門の皇子が天皇になったことから、「流罪」では不都合だったのではないでしょうか。

 

ただ幕府も土御門に関しては厚遇ぶりを見せてはいたので、後鳥羽・順徳とは事情が異なっていたのも事実のようです。

 

後鳥羽の皇子で実朝の後継者に擬されていた頼仁親王と雅成親王流罪となりました。

 

幕府による朝廷再建が粛々と進められていきました。

 

摂政は後鳥羽に近かった九条道家は摂政を降ろされました。承久の乱後幕府が交渉の相手に定めたのは九条家ではなく、近衛家でした。西園寺家閑院流清華家であり、朝廷を代表するだけの地位にはありません。朝廷を代表しうるのは摂関家です。

 

幕府は近衛家実後堀河天皇の摂政に据え、朝廷の再建を目指します。しかし家実の前には後鳥羽のあまりにも巨大な負の遺産が立ちふさがり、家実自身も天皇家との血縁関係が脆弱で、朝廷を束ねていくことが難しいという現実がありました。

 

家実は娘の長子を後堀河に入内させ、それまで後堀河の中宮だった有子を皇后に冊立します。それが軋轢を呼び、九条道家西園寺公経道家の娘の竴子を中宮に冊立し、長子を退出させます。

 

後堀河がまだ皇子を産んでいない段階で9歳の長子を入内させるのはいかにもセンスがないと言われても仕方がありません。とにかく当時必要だったのは即戦力です。じっくりと育成する余裕は当時の後高倉皇統にはなかったのです。

 

竴子は期待に応えて秀仁親王を産みます。しかし皇子が一人だけというのは非常に危ういわけです。

 

折しも流罪になった三上皇の帰京問題が持ち上がります。後鳥羽と親しかった九条道家が中心になって後鳥羽をはじめとする承久の乱関係者の帰京を主張します。

 

幕府はこの帰京問題に対して後鳥羽を帰京させれば再び倒幕運動に使われるかもしれない、と心配して反対した、とされていますが、河内祥輔氏が主張するようにその見方は成り立たない、と私も考えます。もし帰京してももはや後鳥羽が倒幕を計画する、という可能性がないのは幕府自身がよくわかっているはずです。

 


天皇と中世の武家 (天皇の歴史)

 

 

幕府が後鳥羽らの帰京問題に敏感になっているのは後高倉皇統の脆弱性である、と河内氏は言いますが、従いたいと思います。

 

一方帰京を主張する道家らの根拠も単に後鳥羽らをもどしたい、という側面だけでなく、皇統の行方を考えたからではないでしょうか。皇位継承者が秀仁親王一人だけ、という状況は非常に頼りないもので、幕府や朝廷も万が一のことを考える必要はあります。特に死亡率が現代とは比べ物にならないほど高い当時では、いつ誰が死ぬかわかったものではありません。幕府も朝廷もこういうときに自分の価値観にしがみついて天皇の後継者を閉ざしていくほど愚かではありません。

 

交野宮と呼ばれる人物がいます。高倉天皇第三皇子の惟明親王の皇子です。彼は皇位に関係のなくなった段階で出家しようと考えていたところ、幕府によって出家を留められています。しかし元服もさせてもらえず、中途半端なままで養育されていました。

 

しかし出家を留められた2年後、交野宮は長髪の風体で鎌倉に下向し、結局出家ということになっています。

 

出家を幕府が留めたのは、幕府が彼を皇位継承資格者にしようとしていたからでしょう。万が一の場合は彼にも皇位継承の可能性を残す。しかし元服させないのは、皇位継承資格者であることを明示すると後高倉皇統の権威が揺るぎかねない。

 

ちなみに貞成親王が出家を留められる一方で元服も見送られていたのもその辺の隠微な事情がからんでいたのではないか、と考えています。

 

交野宮以外に、仲恭天皇も出家させられず九条道家に養育されていました。万が一の場合のカードとして保持していたのでしょう。

 

順徳皇子の忠成王は順徳母の修明門院のもとで同じく養育されていました。これも万が一の場合のカードだったのでしょう。

 

土御門皇子の邦仁王は土御門母の在子の実家の源定通のもとで養育されていました。定通は源通親の息子で、義時の娘を妻に迎えていました。邦仁王も当然同様に出家もせず元服もせず中途半端な状態で皇位継承のカードとして置かれていました。

 

こういう不安定な状況で後鳥羽らを帰還させれば後高倉皇統の正統性がゆらぎ、状況が流動化してしまうのは目に見えています。

 

後鳥羽らの帰京運動が実を結ばなかったのは、後高倉皇統の不安定さがあったのではないか、と考えられています。

 

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