オンライン日本史講座四月第一回「鎌倉幕府と天皇家の分裂」2
4月4日午後8時30分からのオンライン日本史講座のお知らせです。
これの続編です。
承久の乱によって後鳥羽とその子孫は皇位継承から原則的に外されます。代わって皇位を継承したのは後鳥羽の兄の子孫の後高倉皇統でした。しかし後高倉には出家していない皇族が後堀河天皇以外にはおらず、非常に脆弱なものとなっていました。
現状皇位継承者は秀仁親王一人です。とりあえず皇位の継承を確実なものとするために秀仁親王は生後半年強で立太子、2歳で践祚、践祚の2ヶ月後に即位します。非常にスムーズに進んでいます。
ここで践祚と即位についてざっくり説明しておきましょう。
践祚とは天皇の位を継承することです。即位とは天皇の位を継承したことを内外に広げることです。通例は数ヶ月程度ですが、後柏原天皇のように20年も行われないこともありました。
後堀河上皇が院政を敷きましたが、2年足らずで死去します。まだ23歳の若さでした。後鳥羽の生き霊という噂もたちます。
皇位の行く先は混沌とします。惟明親王の話は前回しましたが、万一に備えた皇位継承者のストックは用意してありました。しかし後堀河死去の直前に九条廃帝(仲恭天皇)も死去しており、皇位継承のスペアも少なくなっていきます。
結局万一に備えたスペアは順徳皇子の忠成王と土御門皇子の邦仁王に絞られます。
あとは四条天皇が順調に成長して多くの皇子をもうけて後高倉皇統を安定させるしかありません。九条教実の娘の彦子を入内させました。
最初に摂政になったのは九条教実です。後堀河が後鳥羽の生き霊に殺された、という風聞がたち、教実らは後鳥羽と順徳の帰京運動を始めます。土御門はすでに配所で世をさっていました。しかしその帰京運動は幕府からの反対もあってつぶれます。帰京が実現するためには四条に多くの皇子が生まれ、後高倉皇統が盤石にならなければなりません。
やがて後鳥羽も隠岐島で帰らぬ人となります。諡号を顕徳院といいます。
いよいよ順徳の帰京運動は切実味を増します。せめて一人でも帰京を実現しないと九条道家の面目は立ちません。しかし広い目で見ればそれは後高倉皇統にとって不安定化しかもたらしません。というより、道家は順徳皇子の忠成王を本命としていたのではないでしょうか。廃帝が廃位されたことは九条家にとっては衝撃だったようです。
九条道家も北条泰時ももちろん藤原頼経もそれぞれ向いている方向は違えど天皇の権威をどのようにして次代に引き継いでいくか、を必死に考えているわけですが、一人、そんな努力をあざ笑うかのような行動に出ました。
四条天皇は悪戯盛り、自分の座っている地位の重さなどに思いを馳せるほど成長していません。彼はいたずらで滑石を内裏に撒いて人々が足を滑らせるのを楽しみにしていたところ、自分が滑って負傷し、その三日後に急死した、と伝えられます。
思いも掛けない事情で突如途絶えた後高倉皇統ですが、もはや後鳥羽皇統を忌避することはできません。
ここで九条道家は順徳皇子の忠成王を推し、それに基づき準備を進めます。ただ鎌倉幕府の同意なしに忠成王を践祚させるわけにもいきません。道家らは忠成王の践祚を見合わせます。その結果天皇は空位となりました。
天皇を空位にしても鎌倉幕府の意向を確かめた、というのは鎌倉幕府が邦仁王を推すかもしれないという読みがあったからでしょう。邦仁王は泰時の妹が嫁いでいる土御門定通が養育していました。
道家の危惧は当たりました。北条泰時は使者の安達義景に「もし忠成王が践祚していたら引き摺り下ろせ」と命じる強硬姿勢で臨みます。
結局11日間の空位の末に邦仁王が践祚します。後嵯峨天皇です。当時の公家たちは反発します。幕府の容喙で皇位が決定する、というのは朝廷にとっては屈辱以外の何物でもありません。当時の日記には泰時に対する怨嗟の声が記されています。
泰時はその4ヶ月後、熱病で苦しみながら病死します。さながら平清盛のように苦しみぬいたとされました。
興味深いのは泰時死後100年後の『神皇正統記』には泰時の決断は褒め称えられています。これは後醍醐天皇も後嵯峨天皇の子孫だったからです。後嵯峨天皇は自身の子孫に皇位を継承させ続けました。それゆえ「正統」の天皇だったのです。
そして鎌倉末から室町時代には後嵯峨天皇は天皇の歴史において一つの画期とみなされるようになります。
後嵯峨院の時代は幕府の主導のもとに朝廷権威の立て直しが強力に推進された時期でもありました。
次回は後嵯峨天皇の時代を見ていきたいと思います。