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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座四月第一回「鎌倉幕府と天皇家の分裂」3

4月4日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座の予習エントリです。

 

ticket.asanojinnya.comここの4月4日分です。名前が「南北朝・室町の皇位継承」となっていますが、日付の方で来てください。名前が実際とはずれています。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

sengokukomonjo.hatenablog.comの続きです。

 

順徳皇子の忠成王と土御門皇子の邦仁王から鎌倉幕府の意向が通って邦仁王が即位することになりました。幕府に皇位の継承を介入されたことで当時の朝廷の世論は沸騰します。しかし時代が降ればこの決定はベタ誉めされます。

 

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後嵯峨天皇 天子摂関御影

 

後嵯峨天皇の治世が始まります。朝廷の実力者の九条道家は忠成王を推していたわけですが、実際朝廷をリードできるのは道家しかいません。土御門定通はどう考えても朝廷をリードする立場にはありません。道家は何と言っても息子が鎌倉幕府の将軍です。

 

北条泰時はこの皇位決定直後に病死します。鎌倉幕府の新たな執権となったのは北条経時でした。経時は泰時の孫にあたり、当時まだ19歳でした。一方頼経は24歳、官位も正二位前権大納言という高位高官に昇っていました。これが飾り物であれば問題はなかったのですが、実際には問題が二つありました。

 

一つは西園寺公経が死去したことで道家関東申次に就任しましたが、頼経は道家の子であるために事あるごとに道家の意向が頼経に反映されることは避けられません。もう一つは頼経を中心に反経時派が形成されたことです。

 

経時が若くして北条本家(これを義時の号を採って得宗といいます)を継承したことに反発する北条朝時が頼経に接近していました。

 

これを危険視した経時はハレー彗星を理由に頼経の将軍職を息子の頼嗣に交代させます。しかし頼経は鎌倉にとどまり、朝時らを中心とした反得宗勢力の結集核を形成します。

 

そうした中、経時が23歳で死去します。経時には幼い子供がいましたが、朝時の子の光時らに対抗するために経時の弟の時頼が擁立されます。

 

その直後、時頼排斥を狙う動きが頼経・光時らを中心に活発化しますが、北条氏に次ぐ大御家人三浦泰村が時頼支持を鮮明にしたため、時頼は頼経を追放し、光時を伊豆に流罪に処してこの宮騒動と呼ばれる一連の政治闘争に勝利します。

 

これで頼経の運命は窮まり、京都に送還されてしまいます。

 

三浦泰村の弟の光村は頼経派の側近で、京に送還される頼経に対し「もう一度鎌倉にお迎えします」と誓ったとされます。

 

一方泰時、時氏の外戚であったのは三浦氏ですが、経時・時頼の外戚であったのは安達氏でした。安達氏はいつまでも二位の序列を動かない三浦氏に苛立ちを募らせ、挑発行動に出ます。当時の当主の安達義景とその甥に当たる時頼はあくまでも穏便に外戚交代をしたいと考えていましたが、高野山に隠遁していた義景の父の景盛が鎌倉に帰ってきて挑発行為を激化させます。

 

時頼と泰村は武力衝突をなんとか回避しようとギリギリの折衝を積み重ね、妥結が成立したと見えた瞬間景盛が泰村を奇襲し、宝治合戦が勃発します。

 

三浦氏は滅亡し、北条得宗専制政治がスタートします。

 

頼嗣は4年後に頼経が反時頼の陰謀事件に与した疑いで解任され、京都へ送還されます。実際には後嵯峨天皇の一宮の宗尊親王を将軍にするために解任されたのでしょう。鎌倉幕府はここに悲願の親王将軍を擁立することになります。後嵯峨天皇にとってもこれは僥倖でした。一宮の宗尊親王後嵯峨天皇が不遇の時代に生まれており、母親の身分が低かったため皇位継承は難しかったのです。鎌倉幕府の将軍ならば願ってもない行き先です。

 

頼嗣は京都に送還され、道家後嵯峨天皇の勅勘を被り、九条家は政治的に失墜します。後嵯峨は九条流家督道家の子の良実に継がせます。これが二条家の始まりです。実経が回避されたのは頼経と同母の弟だったからでしょう。実経が一条家の祖となります。

 

時頼は病気で執権を辞任したのち、回復したため執権ではないにも関わらず自らの邸で寄合を開催し、得宗という地位で幕政を執る形になります。

 

時頼には生母の身分の低い庶長子がいましたが、本命の後継者は北条重時の娘を母に持つ時宗でした。時宗は14歳で家督を継承し、連署に就任します。そして18歳で執権に就任し、幕政の頂点に立ちます。

 

しかし経時と頼経の関係がここでも再現されます。

 

宗尊親王は和歌に堪能で鎌倉歌壇を形成します。そのもとには歌人御家人が多く参入するようになっています。

 

また時宗との関係もいささかよくなかったと見え、時宗と些細な儀式の進行をめぐって争うこともあったようです。

 

しかし彼の運命は実に些細なことで暗転します。

 

彼の妻の宰子は関白右大臣近衛基平の姉でした。彼女が松殿家出身の将軍護持僧良基と密通したのです。しかし宗尊親王はそれを咎めることなく逆に庇いだてします。

 

この異常な状態に幕府は頭を悩ませたのか、それとも将軍の政治勢力化を除去するいい機会と捉えたかはよくわかりません。とりあえず幕府は宗尊親王を送還します。あとには惟康王が将軍に就任します。

 

宗尊親王は父親の後嵯峨上皇の勅勘を蒙り、時宗の取りなしで解かれていること、時宗から所領を献上されているところを見ると、時宗宗尊親王に悪意を抱いていないことがわかります。とすれば、もしかしたら将軍解任を決断したのは後嵯峨上皇だったのかもしれません。

 

少し時計の針を戻しますと、後嵯峨天皇は在位4年、ちょうど宝治合戦のころに久仁親王に譲位し、院政を開始します。後深草天皇です。しかし後嵯峨上皇と大宮院の気持ちは弟の恒仁親王に向いていました。後嵯峨院は恒仁親王天皇にします。亀山天皇です。そして皇太子には世仁親王をつけます。後の後宇多天皇です。

 

これに後深草上皇は反発します。時宗は裁定に入り、世仁親王の次は後深草院の皇子の熈仁親王と決定します。ここに皇統は後深草の子孫の持明院統と、亀山の子孫の大覚寺統に分裂することになります。

 

またまた時計の針を戻します。後嵯峨院政の特徴です。後嵯峨の時期に院庁別当の中の実務の中心となる院執権や、弁官・職事の奏事を院に取り次ぐ伝奏、訴訟を取り上げる院評定といったシステムとしての院政が完成します。

 

そういう意味で後嵯峨上皇の時代は中世の天皇制の大きな画期と室町時代にはみなされていました。にも関わらず後嵯峨天皇の評伝がないのは問題であると考えます。

 

というわけで一見地味で誰も正面から取り上げないが、実は取り上げないと中世の天皇制がわからないんじゃないか、という天皇第二弾として後嵯峨天皇の評伝を提案したいと思います。