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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

昔の改元の時の候補とその出典を見てみよう2−永享から嘉吉へ−

改元便乗企画です。今回は永享から嘉吉への改元を取り上げます。

 

永享十三(一四四一)年は干支が辛酉に当たりますが、辛酉の年は天命が改まる時で、革命が起こるので改元するという習わしになっていました。これを辛酉革命説といいます。神武天皇の即位の年も辛酉革命に依拠しています。皇紀というのは、推古天皇の辛酉の年の六〇一年の千二百六十年前の辛酉の年を始まりとして出されています。

 

では候補とその出典、出した人を見ていきましょう。

 

文章博士菅原在綱(唐橋家)

仁厚(『漢書』「陛下至徳仁厚、哀憫元元」)

治万(『尚書』「地平天成、六府三事、允治万世、永頼時乃功」)

建平(『漢書』「明帝王之法制、建泰平之道」)

 

同益長朝臣(東坊城家)

嘉吉(『周易』「孚于嘉吉位正中也」)

洪徳(『周易』「皇恩溥、洪徳施」)

宝暦(『貞観政要』「恭承宝暦、⬜︎(タに寅)奉帝図、垂拱無為、気埃静息」)

 

正三位民部卿式部大輔菅原朝臣在直(唐橋家)

文安(『尚書』「欽明文思而安安」)

慶長(『毛詩注疏』「文王功徳深厚、故福慶延長也」)

咸和(『尚書』「咸和万民」)

 

左大弁藤原朝臣資親(日野家

徳建(『尚書』)

長祚(『条文殿御覧』「調長祚和天之喜風也」)

 

従三位大蔵卿菅原朝臣為清

享徳(『尚書正義』「用玉礼神々享其徳使風雨調和」)

和元(『唐書』「陰陽大和、元気已正」)

徳和(『尚書』「今王用徳和悦」)

 

メンツを見ていて気になるのが「徳建」と「長祚」を提出した日野資教です。今年の五月十七日に刊行される『十六世紀史論叢』十一号に掲載される拙稿「禁闕の変再興」を読んでいただければ出てきます。

historyandculture.jimdofree.com

まあざっくり言いますと、彼は日野有光の息子です。有光は禁闕の変を引き起こし、戦死します。哀れを留めたのが子息の資親で、彼は姉が後花園天皇に使える権大納言典侍であったこと、彼自身参議左大弁と順調に出世していたにも関わらず、そして父親の企みにも関与していなかったと見られるにも関わらず処刑されます。この改元に関与してから二年半後のことです。

 

文安と享徳は室町時代の、それも後花園天皇の時代に採用されます。

 

慶長は安土桃山時代に、宝暦は江戸時代にそれぞれ採用されます。

 

洪徳は応永改元の時に足利義満が強烈にプッシュした年号案です。「大明洪武」ということで、中国に倣った年号をプッシュしたのですが、「徳の字が続くのは不吉」(永徳・至徳・明徳)とか「洪の字は洪水を招く」とかいわゆる「難陳」と呼ばれる提出案を絞る過程の中でボツとなります。

 

権力者が自分の年号の好みをごり押ししても簡単には通らないだけの厳粛さを持って当時の年号は考えられていたことが伺えます。義満といえども、年号を私物化できなかったのです。そしてそのような厳粛さがあったからこそ長く続いてきたのです。

 

年号は本来政治的なものです。だからこそ権力者の恣意が見え隠れすればその権威は汚され、もはや続けるだけの価値がないもの、とみなされてしまいかねないことを長い歴史の中で関係者は己を律し続けてきたのです。