オンライン日本史講座四月第三回「室町時代の皇位継承」1
4月18日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座「中世・近世の皇位継承」「室町時代の皇位継承」の予告です。
室町時代の皇位継承あるいは天皇そのものについてはそれほど知られているわけではなさそうです。
しかし現在まで天皇が存続してきた一つの鍵は室町・戦国時代にあるのではないか、という議論も存在します。例えば、権力や権威が零落しながらもなぜ滅ぼされなかったのか、という問題です。
これに関しては現時点の私の感想では「誰も滅ぼそうと考えなかった」ということになります。
問題は「なぜ誰も滅ぼそうと考えなかったのか」です。更にいえば「なぜ必要だったのか」という問いも立てられます。「必要ない」と思われれば簡単に断絶しますから、これは歴史上「必要とされてきた」としか現時点では言いようがありません。
これについては室町時代には世俗的な権力を失いながらも宗教的な権威として存続していた、という見方がなされています。一方で天皇が政治的な存在である以上、政治史的アプローチから接近することなしには天皇をめぐる議論は「結果論的解釈」になっていまうと主張したのが今谷明氏の『室町の王権』でした。
今谷氏は天皇家を乗っ取ろうという計画が足利義満によって計画されたものの、大名たちが天皇と将軍を足利家が独占し、超越的な力を持つことを嫌って義満の皇位簒奪計画を阻止し、その後、後花園天皇によって天皇の権威が急速に回復していく、と考えました。
今谷氏のこの著作は非常に大きな話題を呼び、多くの論争を巻き起こし、室町時代の天皇の研究を飛躍的に向上させました。現在の室町時代ブームを作り出した一人と言えるでしょう。
室町時代の天皇の始まりはやはり崇光天皇と後光厳天皇にあるでしょう。
観応の擾乱の過程の中で足利尊氏が南朝と和睦するという事態が起こります。これを正平の一統といいます。尊氏は南朝を唯一の皇統と認め、和睦する、というものです。
尊氏は弟の足利直義と争う中で、北陸から東国に逃げた直義を討つために後顧の憂いを断つために南朝と和睦したのです。そのためそれまで皇位に就いていた崇光天皇は退位します。これについては後村上天皇は太上天皇の尊号を奉って北朝の顔は立てています。
しかし最終的に和睦は破れ、南朝は崇光・光厳・光明の三上皇と廃太子の直仁親王を拉致して逃げます。
困ったのは室町幕府と北朝です。治天の君も天皇も皇太子もいない、という惨状でした。このような中奇跡的に妙法院に入室する予定であった光厳上皇の二宮の弥仁王が残っていました。南朝は彼ももちろん拉致する予定だったのですが、間一髪逃亡に成功していたのです。かれが即位して後光厳天皇となります。神器も治天の君による譲国の儀式もないまま即位した後光厳は著しく権威を欠落させた天皇となりました。
とりあえず治天の君を唯一残っていた天皇の直系尊属である広義門院に依頼します。広義門院は西園寺家出身で寧子といいました。彼女は当初は渋っていましたが、幕府サイドの強硬な説得に折れ、広義門院が治天の地位に暫定的に付く形で皇位継承をなんとかやりとげます。
しかし実際には治天たるべき光厳は遠く賀名生の山中にいました。当時の北朝には彼らの帰還を待つという選択肢もあったはずです。粘り強い交渉で彼らの帰還と交換条件を探る、という形でソフトランディングを図るというのが後光厳擁立に反対した人々の意見だったのではないか、と思われます。
しかし義詮はつっぱりました。光厳は出家し、以後現世とは関わりを絶ってしまいます。
後村上は南北朝のソフトランディングを目指していたと言われています。まず繊細な精神のためか、崇光の廃位と南朝の入京でショックを受けて出家し、精神状態が危ぶまれていた光明法皇はいち早く帰還します。
数年後には崇光・光厳・直仁も帰還しますが、そこで問題が起こります。
後光厳は一時的ないわば中継ぎとして即位した、と崇光は判断しました。本来の皇太子である直仁親王は出家していたため、崇光は自らの皇子の栄仁親王に好意が継承されるものと思っていたようです。
しかし後光厳天皇は皇子の緒仁親王に譲位を希望します。崇光は幕府に皇位への介入を求めますが、当時の幕府を率いていた細川頼之は「聖断たるべし」と後光厳に判断を一任します。後光厳は儲君に緒仁親王を就け、同母のこの兄弟の仲は決定的に決裂します。ここに北朝でも皇統が分裂してしまいました。
幕府の対応はそこでは一貫しています。幕府はあくまでも後光厳を正統とし、崇光とその子孫には皇位を継承させない、という方針で一貫します。両統迭立の二の舞を恐れたのでしょう。
後光厳は権威の失墜に悩みながら崩御します。儲君緒仁親王は即位します。後円融天皇です。この後円融天皇の時に一大事が勃発します。これ以降は次回に回します。