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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座四月第三回「室町時代の皇位継承」3

4月18日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座「室町時代皇位継承」のお知らせです。

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後小松天皇足利義持は儲君の躬仁親王践祚に踏み切ります。実は後小松天皇の在位は30年を超え、長い方になっていました。

 

躬仁親王の即位は南北朝合体の条件に違反しており、後南朝はそれを不服として蜂起しますが、鎮圧されます。

 

躬仁親王践祚には足利義満の死去が関係あるかもしれません。南北朝合体の条件の一つである両統迭立南朝北朝が交互に皇位に就く事)は義満が決めた事であり、義持や後小松にとっては知ったことではなかったでしょう。当事者の義満が死んだ事で義持と後小松はなかったことにしてしまったのではないでしょうか。

 

躬仁親王称光天皇は剛毅な天皇ではあったようです。火災のときに仙洞御所は焼け落ちましたが、称光は内裏に仁王立ちになってお気に入りの金の鞭で消火を指示、義持や足利義嗣、諸大名たちも一斉に消火活動に取り組み内裏は無事だったことがありました。

 

しかしこの剛毅な性格は時として粗暴にもなります。称光は太刀や弓矢を愛好するという、武を好む側面もありましたが、金の鞭で気に入らない近習や女官を打ち据えるという暴挙に及ぶことがあり、義持は禁裏の警固の強化という名目で称光を監視させたり、名前が「身に弓あり」として諱を実仁と変えさせています。

 

この時期の義持の対朝廷政策は、後小松の治天就任ということもあって、義持自身が院の役割を果たす必要がなくなり、義満のように朝廷との関係を深めることがなくなりました。義持自身は内大臣より上には進もうとせず、准摂関家としての地位を守っていました。

 

しかし一方で自らの将軍就任とともにあった応永年号への執着は凄まじく、称光の代はじめ改元も行わせようとはしませんでした。

 

次にやってきたのが称光天皇の健康問題です。

 

称光天皇は応永25年を超えるころから病気の記事が目につき始めます。

 

この年の7月、称光の新内侍が懐妊しました。めでたい話のはずです。しかし称光は「身に覚えがない」と言いだし、大騒ぎになります。

 

称光は新内侍が伏見にいる間に懐妊したと主張し、貞成親王による密通を疑いだします。武家伝奏の一人の広橋兼宣に義持が「貞成親王は言い逃れできまい」ともらすほどのピンチだったのですが、義持の調査と貞成の起請文によって疑いは晴れ、貞成が提出した起請文に恐懼した義持は後小松父子に「したたかに申し入れ」ました。

 

結局これは松木宗量の讒言ということになり、宗量は讒言の罪とそれに加えて後小松の典侍の光範門院との密通も露見し、追放処分になります。

 

後小松一家にとっては散々な出来事になってしまいました。後小松一家の権威は失墜し、さらに義持と貞成の距離が接近してしまうという結果に終わりました。

 

この年の10月には称光の心身は明らかに悪化していきます。そしてそのころ貞成に仕えていた今参局(側近の庭田重有の妹)が第二子を懐妊し、翌年6月には第一皇子を産みます。

 

その数年後、義持は若宮の年齢を尋ねます。万が一のことも考えたのでしょうが、結局称光の儲君に弟宮を立てることになります。

 

しかしこの弟宮がとんでもない人物だったようで、御薬供の最中に妹宮の理永女王を「淫事」「蹂躙」するという不祥事を起こしています。性的な暴行と解釈されています。この前代未聞の不祥事には後小松も激怒し、弟宮勧修寺経興の小川(こかわ)亭に移され、これ以降小川宮(こかわのみや)と呼ばれるようになります。

 

このころ内裏の四足門の警備をしていた管領畠山満家は奇妙な指示を受けます。女装した人物が武器を携行して突入してくるかもしれないが断固阻止せよ、だが切りつけたり殴りつけたりしてはいけない、というものでした。満家が困惑して問い合わせたところ、天皇の側近と恋愛のもつれを起こした小川宮が意趣返しに内裏突入を企画しているというものでした。この事件を受けて後小松は称光の教導を義持に依頼しています。後小松の手には負えなくなっていたのです。

 

その十日後には小川宮は称光にペットの羊の譲渡を申し入れます。称光は兄弟の和解に役立てばと思い、贈ったところ、即日その羊は殺害されました。

 

そのうちに小川宮は急死します。毒殺の噂がたちました。

 

義持の嫡子の義量は病臥ののちに病死しました。

 

朝廷と幕府はほぼ同時に後継者を失ったのです。これが政治不安を招かないわけがありません。

 

貞成はそのころ後円融院33回忌に協力した功績で親王宣下を受けました。後小松より五年年長でしたが、名目上後小松の猶子となって宣下を受けたのです。

 

これに過敏に反応したのが称光です。平家物語を聞いていたことを後小松に咎められた称光は錯乱し、出奔しようとします。

 

義持が急を聞いて参籠を中断して称光の説得に乗り出し、貞成親王の出家が決定します。称光は貞成親王が次の皇位継承者と勘違いしたのです。そしてその疑いを晴らすために貞成は出家させられました。

 

その直後称光は意識不明の重体に陥り、典医も匙を投げました。義持は貞成に若宮の年齢を尋ね、称光死去後直ちに伏見若宮践祚の儀を執り行うことが決定しました。

 

しかし称光はこのとき奇跡的な回復力を見せます。そしてそこで貞成が称光を呪詛した、という疑惑が持ち上がりますが、その疑いも晴れます。

 

とは言っても称光の健康状態は好転する見込みもなく、皇子生誕の可能性も絶望的だったとされますが、実際には皇女が生誕しているので、まだ皇子生誕の可能性も残されていた、と見るべきでしょう。

 

しかしその望みが潰える時がきました。

 

足利義持から足利義教への代替わりがあった半年後、称光は病に倒れ、半月の闘病の末にあっさり死去します。

 

義教は称光重体の報を受け取ると直ちに畠山満家と赤松満祐に命じ、伏見若宮の身柄を確保し、若王子に入れ、称光の死去を待ちます。称光の死去後直ちに後小松と交渉し、伏見若宮の践祚を決定します。後花園天皇の誕生です。