昔の改元の時の候補とその出典を見てみよう4−文安から宝徳へ−
平成から令和への改元に便乗した企画です。平成最後の改元便乗企画となります。次回の宝徳から享徳への改元が令和最初の改元便乗企画です。後花園天皇はかなり改元を好んだようで、改元すると支持率がアップでもしたかのようです。
文安六(一四四九)年、四月十日の戌の刻(午後8時ごろ)に大地震があり、夜中にも余震があったようです。十三日にも余震が続きました。禁裏や仙洞御所*1の築地が破損し、神泉苑の築地も「頽廃」となります。東山や西山には地割れができ、若狭海道の小野や長坂付近ではがけ崩れが起こり多くの荷馬車や人々が死亡しました。
その六日後、室町殿が元服します。かねてより義成という名前が後花園の宸筆で与えられており、正式に後継者となります。これは以前からこの日だったのか、それとも地震による政情不安を解消するために急遽設定されたのかはわかりません。
この地震のあと六月には疫病が蔓延し、飢饉も起こります。このような場合、朝廷にできるのは・・・
そうです。改元です。改元で何か気分が変わって、現実には何も変わらないのに「何かやってる感」が出る、という感じでしょう。
七月二十八日、改元が行われます。
では改元の候補と提出者を見ておきましょう。
博士菅原継長(高辻家)
正永(『後周書』文苑伝、「声実倶茂詞義典正、有永嘉之遺烈焉」)
康楽(『崔寔政論』「苟有康楽之心充於中、則和気応於外」)
慶徳(『周易注』「以中正有慶之徳有⬜︎往者何適而不利哉」)
博士菅原為賢(五条家)
宝徳(『唐書』「朕宝三徳曰慈倹謙」)
大応(『史記』「輔徳天下大応」)
仁昭(『桓子新論』「悦我以仁昭明我名」
式部権大輔菅原在豊(唐橋家)
長享(『文選』「喜得全功長享其福」)
建和(『孟子』「唯天子建中和之極」)
康昭(『漢書』「明君之徳啓通、鴻化緝凞康、又光昭六幽」)
参議菅原益長(東坊城)
文昭(『文選』「資忠履信武烈文昭」)
寛安(『荀子』「生民寛而安」、『毛詩注疏』「行寛仁安静之政以定天下」)
洪徳(『文選』「皇恩溥洪徳施」)
式部大輔菅原在直(唐橋)
慶長(『毛詩注疏』「文王功徳深厚、故福慶延長也」)
咸和(『尚書』「用咸和万民」)
権中納言藤原資任(烏丸家)
安永(『文選』「寿安永寧」、『唐紀』「保安社稷永可奉宗祧」
文昭(『御注孝経』「天文昭煥洞合幽微」)
ちなみに五条為賢は「称光院」を提出した人です。