オンライン日本史講座四月第四回「戦国時代の天皇」4
オンライン日本史講座「戦国時代の天皇」4が無事終了しました。
後花園天皇、後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇までを見てきました。
今回の講座での質疑ですが、践祚と即位の違いがやはり間も無くやってくる代替わりの問題とも絡んで重要な問題であったと思います。
後柏原天皇のように践祚と即位が22年も離れていれば説明しやすいのですが、践祚というのは天皇の位を継承することです。それに対して即位は皇位を継承したことを内外に広く知らしめることです。
ちなみに現行の皇室典範では皇位を継承することを「即位」といい、儀式を行うことを「即位の礼」と呼んでいます。これは「践祚」が「即位」と言い換えられ、「即位」が「即位の礼」と言い換えられている、ということです。
もう一つ、代替わりで関心を集めているのが「上皇」です。元来は「太上天皇」の省略が「上皇」ですが、二重権力への警戒から「天皇」という言葉を使わないように、ということで今回の「上皇」は「太上天皇」の省略形ではない、という扱いになっています。
ちなみに天皇の母親は元来は「皇太后」というのですが、ここではわざわざ新しい「上皇后」という称号を作っています。いろいろ気を使うところがあるのでしょうと拝察しますが、無責任な立場からすれば「太上天皇」「皇太后」でいいんじゃね?なんて思ったりします。まあこの辺は実際にはいろいろ考えるべき点があって、そこを考慮した結果の結論だと思うので、批評しようとは思いません。
お話ししていて私なりに考えなければならないな、と思ったのは、羽賀寺再建の際の後花園天皇の関与です。羽賀寺再建事業になぜ足利義教ではなく後花園天皇なのか、という問題があり、あまり言及されていません。黒嶋敏氏が説明していますが、それ以外にはほぼないようです。
これについて私の考えを単純に述べると、小浜が禁裏御料であるから、ということになります。ただ、これは「光厳院置文」をはじめとする持明院統の天皇家領のリストには出てきません。ということはあとになって禁裏御料に編入されていることになります。
私の現時点での思いつきですが、これは足利義教による天皇家領の大幅な再編の中で新たに禁裏御料に編入されたのではないか、と考えられます。
後小松院崩御に際し、天皇家領の処理を担当したのが足利義教でした。義教は天皇家家長代理として天皇家領を再配分します。
基本的な方針は伏見宮家の経済的自立を重んじたものになっています。
まず天皇家領から熱田社領を剥がして伏見宮家の所領に編入します。詳しくは下記二つのエントリをご覧ください。
この代わりに光範門院の水金役公事と理永女王の出雲国横田荘が禁裏御料に編入されます。それと同じ時期に義教の公方御料だった小浜が熱田社領の代替として禁裏御料に編入されたと考えられないでしょうか。
黒嶋氏は「南部氏との抗争によって将軍との〈主−従の関係〉が希薄化した安藤氏に対し、それを補完するべく、天皇からの再建命令という形をとった」(『歴史評論』767号、2014年)で述べていらっしゃいます。
その見解に従えば、それを可能にしたのが小浜の禁裏御料への編入ではないでしょうか。
これについてはいろいろ考えたいところもありますので、来年度の前半には形にしたいと思います。