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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座5月第1回「天下人と天皇」1

ユーチューバー兼歴史学研究者の秦野です。

 

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令和最初のオンライン日本史講座は人気ナンバーワンの織豊政権下における天皇です。

 

織田信長の人気は絶大です。『織田シナモン信長』はありますが、「足利シナモン直義』ではマンガは売れないでしょう。『内閣総理大臣織田信長』はありますが、『内閣総理大臣北条時宗』では売れないと思います。足利直義北条時宗も人気はあるとは思いますが、織田信長には遠く及びません。

 

織田信長天皇と言えば正親町天皇との関わりになります。

 

正親町天皇後奈良天皇の第一皇子です。母親は万里小路栄子です。

 

代替わり改元で弘治から永禄に改元されていますが、当時将軍だった足利義輝は朽木谷に逃亡しており、代替わり改元三好長慶との相談の上で行われています。義輝は改元を知らされず、抗議の意味も込めてしばらく弘治年号を使っていました。年号の持つ政治的意味がよくわかる話ではあります。

 

永禄2年には多くの大名が上洛しています。これについてはその前年に正親町の斡旋で長慶と義輝の和睦が成立しており、将軍の権威が揺らいでいたため、諸大名が上洛してきたのではないか、という天野忠幸氏の研究があります。

 


三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書シリーズ第31巻)

 

 

践祚後2年間即位の礼が行えなかったのはお約束です。ただ2年ですから優秀と言えば優秀です。永禄3年には即位の大礼が行われています。毛利元就本願寺顕如からの献金が大きかったようです。その見返りとして元就には従四位下本願寺には門跡の称号を認められています。

 

永禄の変で足利義輝が暗殺され、義輝を暗殺した三好三人衆堺公方足利義維とその子義栄を擁立し、一方三人衆に捕縛され、監禁されていた義輝の弟の一乗院覚慶は逃亡して還俗し義秋(後に義昭と改名、以下義昭)と名乗って近江を経て越前の朝倉氏の庇護下に入っていました。

 

ここで幕府は二つに分裂し、いずれも京都に不在という異例の状況が出現します。朝廷にとっては非常に難しい局面に立たされました。朝廷に決定権があるのですが、朝廷が情勢を読み違えると朝廷の立場はわるくなります。

 

結局ここでも献金によって決まりました。まず義昭を左馬頭とします。しかし義栄も巻き返し左馬頭に並びます。さらに朝廷は献金を求め、応じた方を将軍とします。義栄が今回は勝ちました。14代将軍に義栄が選ばれました。

 

しかし義昭は朝倉義景を見限り、尾張織田信長を頼り、信長は義昭を擁立して上洛し、義昭は15代将軍に就任します。

 

正親町天皇の人生が大きく変わりはじめました。正親町天皇は在位11年目、51歳になっていました。それまで財政難に苦しんできたのが嘘のように回り始めます。信長の力で禁裏御料が保護され、禁裏に確実に収入がもたらされるようになります。

 

義昭の要求で永禄から元亀改元が行われます。将軍の代替わり改元の実質があります。信長は反対しましたが、結局義昭が押し切りました。

 

しかし信長と義昭の関係は急速に悪化し、信長が「異見十七条」を出すに至って決裂します。久野雅司氏はこれを元亀四年二月のこととしています。

 


足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

 

 元亀四年四月、信長と義昭は武力衝突にいたり、正親町天皇による勅命講和が行われました。すでに元亀元年には浅井・朝倉と信長・義昭は勅命講和を行なっており、勅命による講和は信長にとっての一つの切り札となっていました。

 

しかし義昭は講和を破棄して挙兵しますが、あっさり撃破され、義昭は降伏、河内国などを経て最終的に備後国鞆の浦に落ち着きます。

 

信長は元亀を天正改元、信長自身が天下人となります。しかし信長は征夷大将軍にはならず、右近衛大将、右大臣と累進していき、一方で征夷大将軍鞆の浦にいた足利義昭が引き続き居座ります。そして義昭は京都五山の管理や将軍家御料所の管理などを行なっているのでこれを鞆幕府と見る見解も存在します。

 

信長と正親町天皇に関しては対立説と協力説があります。

 

譲位、蘭奢待、馬揃え、改暦などがその対象です。例えば正親町天皇の譲位の話は信長が正親町天皇を引き摺り下ろそうとしていたのか、という議論です。

 

これに関しては以下の記事が非常に参考になります。

ironna.jp

つまり現在では正親町天皇と信長は終始協調関係にあった、というのが多数説となっています。他の問題でも同じように見られています。古い権威を全て解体した革命家織田信長という見方は現在では克服されつつある、といえましょう。

 


織田信長 <天下人>の実像 (講談社現代新書)