オンライン日本史講座5月第1回「天下人と天皇」3
少し都合がございまして、昨日分の古文書入門はお休みをいただきます。
オンライン日本史講座「天下人と天皇」3の今日は後陽成天皇について見ていきます。
後陽成天皇の時の天下人と言えば言うまでもなく豊臣秀吉であり、徳川家康です。
正親町天皇は待ちに待った譲位を行うことに成功しました。しかし儲君の誠仁親王はその直前に薨去していました。織田信長の時に「天下静謐」が達成できず、豊臣秀吉による「天下統一」が成り立ったからこそできたことでした。退位後の正親町上皇は院政を敷くことはなかったようで、後陽成天皇が直ちに表に出てきています。
彼の最初の大きな仕事は足利義昭の征夷大将軍返上でした。秀吉の説得に応じて参内してきた義昭は征夷大将軍を辞任し、ここに名実ともに室町幕府はなくなりました。実質的にはいつまで残っていたのか、については議論のあるところです。要するに「鞆幕府」を認めるか否か、でしょう。その見返りに准三后を与えています。
次に聚楽第行幸です。豊臣政権の成立を荘厳する重要なイベントでした。秀吉は自らの権威づけに天皇を最大限利用します。従ってこの時期天皇の権威はいやが上にも上がります。秀吉を関白にし、さらに豊臣姓を与え、豊臣氏と天皇の距離は非常に近くなります。
また後陽成天皇の弟宮の智仁親王は秀吉の猶子になり、将来は豊臣家を継承して関白となる予定でした。もっともこれは鶴松が生まれたために白紙になり、秀吉は見返りとして智仁親王のために八条宮を創設しています。
鶴松は早世し秀吉の後継者には秀吉の甥の豊臣秀次が据えられますが、秀吉によって自害に追い込まれ、その後は秀吉は大臣を任命せず、朝廷は内大臣の徳川家康を除いて大臣が存在しないという異常事態に追い込まれます。朝廷は秀吉政権に完全に飲み込まれてしまったかのようです。
秀吉は朝鮮から明を征服する野望を持ち、その手始めに朝鮮使節の上洛の時に天皇に拝謁させるという計画を立てます。天皇に服属する朝鮮という演出を試みたようです。しかしこれは朝廷側の拒否にあいます。光仁天皇以降天皇に拝謁する異国人はいなかったからです。
いよいよ朝鮮出兵が実行される段になり後陽成は秀吉に朝鮮出兵について秀吉が行かなくてもよいのではないか、という宸翰女房奉書を出します。これについては朝鮮出兵自体を止めようとしている、という見解と朝鮮出兵に秀吉が直々に出馬して京都が手薄になることを恐れている、という見解があります。
文禄の役はなかなかハードな戦いとなり、明と日本の間で交渉が行われますが、その交渉の中身をめぐって決裂します。
ポイントは日本側が明に対し日本国王冊封を求めたこと、それに対し明は冊封は認めるが朝貢は認めない、という条件を出し、それに秀吉が激怒したことです。主たるポイントは朝鮮における日本側の城塞の破却を求めたことに日本が反発したことがメインでしょうが、この朝貢を明が断り、秀吉が激怒する、というのは逆のイメージがあります。
しかしこれを逆に捉える考え方そのものが単に日本と明のうわべだけのメンツに注目して秀吉の深謀遠慮を見ない浅い見方です。
秀吉はなぜ明に貢物を持って行かせてくれ、と頼んだのでしょうか。そしてそれを断られると戦争になるほど貢物を献上することにこだわったのでしょうか。
中国に貢物を献上させてくれ、というのが信じられないのは、天皇の存在を忘却しているからです。
考えてみてください。秀吉はあくまでの後陽成の臣下ということになっています。その秀吉が明から日本国王に冊封され、明に貢物を贈るという形になりますと、理屈では秀吉と朝鮮国王は並び立ち、秀吉の主君である後陽成は朝鮮国王の上、明皇帝と同等ということになります。
秀吉はその外征成功の暁には後陽成を明の皇帝に据えるプランを持っていました。後陽成の第一皇子の良仁親王が日本の天皇になる予定だったようです。
しかし慶長の役では戦線は膠着し、秀吉はその途中で死去し、豊臣政権の弱体化だけが残されました。
後陽成は良仁親王を廃し、弟の智仁親王に譲位しようと考えますが、これについては反対意見も多く、結局断念して第三皇子の政仁親王を儲君に立てることになります。この辺は少しややこしく、真実はわかりません。智仁親王や良仁親王が豊臣色が強いため、徳川家康に忌避されたとみられていますが、近衛信尹によれば家康も智仁親王への譲位には賛成していたようで、関白の九条兼孝、豊臣政権の有力者前田利家、前田玄以の賛成が得られなかったため、家康も最終的に譲位に反対したようです。もっとも智仁親王も突然の後継指名に戸惑っていたようです。
後陽成晩年の出来事としては猪熊事件があります。
プレイボーイの猪熊教利らが宮中の女官と大々的に不義密通を重ね、それが後陽成に露見して後陽成は激怒し、関係者全員の処刑を強く主張しますが、家康は穏健な決着を主張し、結局処刑は二人だけであとは遠流で済まされます。この裁定に朝廷の多数派は賛成しますが、後陽成は不満でこれ以降後陽成は周囲からも孤立してしまいます。
政仁親王への譲位も政仁親王への孫娘和子の入内を目論む家康の反対にあい、延期になります。当時和子はまだ2歳で和子の成長を待たねばなりませんでした。
最終的に後陽成は家康の反対を押し切って譲位しますが、新たに天皇となった後水尾天皇とも不和で、もはや後陽成に寄り添ってくれる人は誰もいなくなっていました。
大坂の陣では豊臣氏と家康の間の講和に動きますがこれも家康にはねつけられてしまいます。
47歳で崩御した後陽成は火葬されますが、現在まで後陽成が最後の火葬された天皇となります。これ以降天皇は土葬が基本となります。