オンライン日本史講座5月第2回「江戸時代初期の天皇」2
オンライン日本史講座のお知らせです。
ちなみに後陽成天皇についての動画が少し苦戦しています。
ご興味があればご視聴ください。兵庫大学教授金子哲先生との掛け合いが割合面白いのではないかと思います。後陽成天皇自身も非常に興味深い人物で、私もどこかで本格的に著述してみたい人物でもあります。
明正天皇の場合、彼女が親政を敷くという可能性も残されてはいたのですが、幕府が、というよりは京都所司代板倉重宗が摂政二条康道の関白転任を拒否したため、その可能性はなく、後水尾上皇の院政が敷かれることになりました。
院政というのは実は江戸幕府にとっては非常に難しいものでした。というのは禁中並公家諸法度には院政に関する決まりごとがなく、院政を統制することは想定されていませんでした。
この辺は江戸幕府としても朝廷としても難しいところであったと思います。
彼女の在位が14年にわたったのは次の後継者候補がまだ若かったこともあります。明正天皇が7歳で践祚し、21歳で譲位していますが、ものすごく若いです。その弟は少し年が離れていまして、位を譲られた時、まだ11歳でした。
11歳で即位した後光明天皇は少し毛並みの変わった天皇だったようです。典型的な中国びいきで、朱子学に傾倒し、漢詩文を主として源氏物語や和歌を嫌いました。
三種の神器を開封して入っていた仏舎利を遺棄したとも伝わります。
武芸を愛好し、酒を愛し、「舐められたら殺す」という気概で生きていたようです。後水尾院が病気になった時に朝覲行幸をしようとしたら「幕府の許可が必要です」と言われ、渡り廊下を作らせて「禁裏内の歩行には幕府の許可はいらないだろう」と一休さんもびっくりのとんちを繰り出しています。京都所司代板倉重宗から「このままでは私が切腹しなければなりません」と諌められた時には「それは是非みたいものだ。切腹するための場所を作らせるからそこで腹を切れ」と言い放ったり、飲酒をたしなめられると切り捨てようとしたり、翌日にはすっぱり謝罪してその剣を下賜したり、と武将としての適性があるように思います。
しかし皇子を得ないまま痘瘡に罹患し、生まれたばかりの末弟を養子に迎えるも23歳の若さで崩御します。
後光明天皇は仏教を嫌い、儒学を好んでいたため、中国の聖人と同様に土葬にすべき、と出入りの魚屋の奥八兵衛が説得して回ったため、持統天皇以降一〇〇〇年の歴史のある火葬は取りやめられ、これ以降昭和天皇まで土葬となります。
儲君となった高貴宮(あてのみや)はまだ新生児であったため、皇位は花町宮家(高松宮家、有栖川宮家)を継承していた良仁親王に継承されます。最初から中継ぎであることを運命づけられていた良仁親王、後西天皇でした。
譲位についても天変地異が相次ぎ、不徳を責められた、後水尾法皇が譲位させた、幕府からの申し入れで譲位させられた、など様々な原因が取り沙汰されていますが、そもそも高貴宮が成長すれば譲位するものであり、譲位に反対する人がそもそもいたのか、というレベルではないか、と思います。
ただ後西天皇の場合、ものすごくたくさんの皇子を産ませていることが目につきます。その数なんと27人。49名いたという嵯峨天皇には遠く及びませんが、中継ぎにしては多い気がします。後水尾天皇は34人、霊元天皇が31人ですから、彼らに比べると少ない、と言えるかもしれません。
後西天皇は和歌・古典や諸芸に堪能で、後光明天皇とは対照的な人物だったようです。
主だった子孫は花町宮、改称して有栖川宮家と八条宮家を継承することとなります。
彼の追号ですが、皇統を残すことをできず、仮住まいの長かった淳和天皇にちなみ、淳和天皇の別号の「西院」の加後号として後西院となりました。この「西院」というのは例えば桓武天皇でいえば「柏原」と同じ意味なので、「後「西院」院」ということになりますが、不恰好なので「後西院」としたと言われています。
明治時代に院号をやめて天皇号で呼ぶことになった時に「後西院天皇」と呼ばれ、対照時代に「院」は無くしてしまえ、天皇家に男系でつながっていない神功皇后は歴代皇統から抹殺しろ、という意見が出てきて男系天皇ではない神功皇后は天皇ではなくなり、後西院も「後西天皇」という不思議な追号となりました。大正十四年のことです。