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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座5月第2回「江戸時代初期の天皇」3

5月9日(木)午後8時30分〜のオンライン日本史講座のお知らせです。

連続講座「中世・近世の皇位継承」「江戸時代初期の天皇」です。

下のリンクでは5月16日となっていますが、5月9日です。

 

ticket.asanojinnya.com

今日は霊元天皇です。

 

霊元天皇は幼名を高貴宮(あてのみや)といいます。後光明天皇の体調悪化にともない急遽養子となります。しかし後光明天皇の予期せぬ崩御によって生後間もない高貴宮の皇位継承は難しいと判断され、花町宮家を継承していた後西天皇を挟んで10歳で皇位を継承します(霊元天皇)。

 

霊元天皇は若い頃は放埓な生活を行い、諫言した公家が勅勘を被ったり、幕府と関係の深い公家と距離をとったり、と少し困った天皇でした。

 

後水尾法皇は遺詔で第一皇子を霊元天皇の後継者に指名していました。しかし霊元天皇はそれをひっくり返そうとし、幕府に打診しますが、幕府は東福門院後水尾法皇の同意が得られていないとして却下します。それに不満を持った霊元天皇後水尾法皇崩御後に一宮を廃して意中の五宮を立太子させ、幕府にも同意を求めます。当時将軍家が断絶し、急遽館林藩から将軍を継承した徳川綱吉は朝廷と事を構える事を回避し、霊元天皇の決定を容認します。それに反対した一宮の外祖父の小倉実起は佐渡流罪となってしまいました。ここに朝廷は幕府に対してごり押しする実績を作ったのです。

 

五宮朝仁親王は成人まで時間がありました。霊元天皇はその長い時間を利用して朝廷の権威を向上させるプランを練ります。一宮をそのまま皇位継承者として継承してしまえば朝廷の権威は現状維持でしかありません。霊元天皇のごり押しは幕府に対する朝廷のプレゼンスを高めました。

 

霊元天皇崇光天皇の皇太子の直仁親王以来存在していなかった皇太子を復活させ、さらに朝仁親王皇位継承にあたっては後土御門天皇以来絶えていた大嘗会を復活させます。そして彼は上皇となって院政を始めます。院政禁中並公家諸法度に規定がない制度外の存在であるために幕府は対応に苦慮することになります。

 

霊元上皇に反発したのは幕府だけではありませんでした。近衛基煕は吉田神道を支持し、神仏習合を嫌う垂加神道に基づく大嘗会を執り行った霊元上皇に不満を抱いていました。

 

しかし霊元上皇にとって一番の敵はあろうことか息子の東山天皇だったのです。

 

東山天皇霊元上皇がいつまでも院政を敷いていることに不満を覚え、近衛基煕と組んで幕府との距離を縮めていきます。当時の将軍徳川綱吉は朝廷を重んじる姿勢を見せ、禁裏御料も一万石から三万石と三倍に増加しています。さらに東山天皇武家伝奏を幕府に計らずに罷免し、幕府も追認する事で伝奏の人事権をも手に入れました。

 

赤穂浪士事件が起こったのは東山天皇親政の時でした。後西天皇から霊元天皇への譲位の時の幕府の使者だった吉良義央を殊の外嫌っていた東山天皇吉良義央が負傷した時には大変喜び、また浅野内匠頭を弁護しなかった勅使は参内禁止処分となっています。

 

東山天皇中御門天皇に譲位しますが、父親の霊元上皇に対する反発のせいか、大嘗会を行なっていません。そして院政を敷き始めた時に天然痘で予期せぬタイミングでの崩御となりました。

 

結果霊元上皇院政の復帰となりました。霊元上皇もさすがに幕府と事を構える事をせず、幕府との協調路線に転じ、幕府も霊元上皇のリーダーシップに期待をかけるようになります。

 

6代将軍徳川家宣が死去し、後継者に「家継」の名前を与えたのは霊元上皇でした。まだ幼少で権威の確立できない7代将軍のために霊元上皇のバックアップは有効でした。さらに近衛基煕を牽制するために霊元上皇は自らの皇女吉子内親王を家継の正室に入れます。これも家継を支え、正徳の治を推進していた幕府にとってありがたい援護でした。こうして幕府との協調路線を作り上げた霊元上皇は出家して法皇となります。彼が最後の法皇です。

 

しかし吉子内親王が降嫁する前に家継は死去してしまいます。しかし霊元上皇は幕府や近衛基煕との関係維持、改善に努め、中御門天皇の成人と共に院政を停止し、引退します。

 

霊元法皇の逸話に中御門天皇と共に象を見た、というのがあります。象は足利義持の時代に現在のパレンバンから献上され、数年間滞在したことがありますが、その時の天皇である後小松天皇はそれを見ていないはずです。その時の象は持て余したのか後に朝鮮国王太宗に贈られています。