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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座5月第2回「江戸時代初期の天皇」報告

オンライン日本史講座「江戸時代初期の天皇」は無事に終了いたしました。

 

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今回も後陽成天皇に引き続き、キレキレの後水尾天皇、後光明天皇後西天皇霊元天皇を取り上げました。この中でマトモだと言えるのは皮肉にも中継ぎで登極した後西天皇だけだ、というのが面白いです。

 

マトモじゃない、と言っても決して暗君だった、というわけではなく、エキセントリックだったということです。この中に一人でも暗君がいれば天皇というシステムは今日まで残っていなかったのではないでしょうか。

 

彼らの業績は以下にまとめられておりますので、そちらをご覧ください。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

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今回話題になったのが霊元天皇追号です。

 

孝霊天皇孝元天皇という、欠史八代天皇から取ってきているのが目につきます。なぜ、この二人なのか。欠史八代とは事績が記紀にも伝わらない天皇のことです。

 

これについては非実在説も現在では主流となっていますが、もちろん霊元天皇の生きた時代に非実在説は唱えられていませんので、実在するかどうか怪しいことが問題ではありません。問題は事績が伝わっていないのになぜ孝霊天皇孝元天皇を選び出したのか、です。他に綏靖天皇安寧天皇懿徳天皇孝昭天皇孝安天皇開化天皇がいます。なぜ孝霊天皇孝元天皇が選ばれたのでしょうか。謎です。

 

こういう過去の諡号の一字ずつをとる、というのは称光天皇に始まるとされています。称光天皇の場合は称徳天皇光仁天皇から一字ずつとったとされています。ちなみに私はこれには疑問を持っています。

 

詳しくは以下で述べました。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

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なおこれについては現在投稿中です。詳細は発刊が決まればお知らせいたします。

 

過去の諡号から一字ずつというのが称光天皇の次には明正天皇になります。これは元明天皇元正天皇から取られています。これは女帝であった明正天皇には女帝の元明・元正から一字ずつというのはわかります。

 

しかし霊元天皇の場合はあえて孝霊天皇孝元天皇からとる必然性はないわけです。適当に選んだとしか思えない。しかしこの見方は正しくありません。適当に選んだのではなく、かなりの思い入れをもって孝霊天皇孝安天皇から選んでいるのです。この思い入れの中身がどう考えてもわからない。

 

ちなみに霊元天皇追号がかなりの思い入れをもって選ばれているのはなぜか、といいますと、これは霊元天皇自身の遺詔だからです。霊元天皇自身が著しい思い入れを孝霊天皇孝元天皇に寄せているのです。

 

霊元天皇は和歌を始め、学問や書道など様々な才能をマルチに発揮していました。かなりの才人であったことは間違いありません。霊元天皇なりに私ごときには思いも寄らないものがあったのでしょう。それが何なのか、ものすごく関心があります。

 

もう一つ話題になったのが院と天皇のどちらが上なのか、ということです。

 

基本的には朝覲行幸などに表象されるように、家父長である院が天皇の上に来ることは間違いがない、といいたいのですが、問題は院政天皇によって停止される場合の権力関係です。

 

古くは二条天皇後白河院政を停止して二条親政を敷いたことがありました。親の院政を子の天皇が停止したのです。

 

宇多院政を後醍醐天皇が停止したのは、その主体が後宇多自身か、後醍醐か、どちらだったのか、で見方は変わります。後宇多が後醍醐に託すために、あるいは後醍醐の倒幕志向を止めさせるために、後宇多自身の意思によって停止したのであれば後宇多は後醍醐の上に立っていたことになります。しかし後醍醐が後宇多の院政停止に踏み切ったのであれば、後宇多は後醍醐の下に位置付けられることになります。この辺は判断が難しいところです。

 

霊元院政は息子の東山天皇によって停止されます。この場合は幕府や摂関家が霊元院政にそっぽを向いていたのが大きかったようです。

 

称光天皇は後小松院政を停止し、称光親政を始めるように後小松に要求しています。しかしこれは実現しませんでした。称光は自身が退位するか、後小松に院政を停止するかを選ぶように迫りましたが、うやむやになりました。

 

この場合は両者の仲介を行っていたのが足利義持で、義持が両者の間を取り持ち、称光の説得に勤めたのでことなきを得た事態でした。