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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座5月第3回「江戸中期の天皇」

5月16日(木)午後8時30分からの「近世中期の天皇」です。

この辺は私の専門からは離れているので、その多くを次の著作に依拠しています。

 


天皇の歴史6 江戸時代の天皇 (講談社学術文庫)

 

今回は中御門天皇を見ていきます。

 

中御門天皇の特徴は大嘗会を経験していないことです。

 

霊元上皇東山天皇即位の時に大嘗会挙行を強行して幕府や摂関家から総スカンを食らったことに懲りてのことです。

 

実際、当時には即位灌頂が後嵯峨天皇以来の即位儀礼として定着しており、今更新たな大嘗会を「復古」という形で創出しなくても、という思いが朝廷の大勢だったのでしょう。東山上皇がイニシアティブを掌握する限り大嘗会はあり得ない、というのは必然です。

 

院政を敷いていた東山上皇が休止し、霊元上皇院政に復帰してきたときには霊元上皇もまた幕府とうまくやっていくという政治的成熟を見せ、不安定化する幕府に対し、アシストをすることで朝幕の協調をうまく成し遂げていった時代でした。

 

中御門天皇の時に実現したものに閑院宮家創設があります。

 

皇位継承が非常にギリギリの綱渡りであることは歴史を見れば明らかで、何か一つでもうまくいかなければたちどころに天皇制度は途切れてしまうものだったのです。

 

称光天皇の末年はかなりのピンチでした。しかし伏見宮家から養子を迎えることでそのピンチを乗り切りました。

 

光明天皇後西天皇霊元天皇皇位継承もスリリングなものでした。

 

この教訓から霊元天皇はそれまでの宮家のみならず、新たな宮家の創設を提言します。この提言はのちに新井白石天皇の断絶に備えて宮家を創設すべきことを主張し、東山天皇の申し入れで具体化します。

 

当時宮家は伏見宮家がありましたが、何しろ男系でもはや200年を超える断絶があります。ここから迎えるのには抵抗があったのでしょう。

 

次に桂宮家が創設されます。豊臣家を継承する可能性があったり、皇位を継承するように兄の後陽成天皇から迫られて困惑したり、と振り回されキャラの八条宮智仁親王を外する桂宮家です。八条通りをまっすぐ行くと確かに桂に出ます。もちろん桂離宮とは深い関係があります。

 

さらにさらに後陽成の皇子好仁親王が創設した高松宮家があります。好仁親王には嗣子なく、後水尾天皇の皇子良仁親王が継承し、花町宮と名前を変えます。良仁親王はワンポイントとして登極し後西天皇となりますが、皇子の幸仁親王が継承し有栖川宮となります。

 

この段階で三宮家ですが、白石は徳川家に御三家があるように宮家も増やさなければならない、と考えたため、閑院宮家を新たに創設することになりました。とするとあるいは伏見宮家は最初から皇位を継承する候補から外れていた可能性はあります。

 

現在の男系の主張の中にはY染色体が連綿とすることを重視する見方があり、その見方に基づけば伏見宮家は何ら問題はないわけですが、血統のみを云々するこの見方が当時採用されなかったのは、あるいは当時の近衛家の存在があったかもしれません。

 

当時の近衛家の血筋は実は後陽成天皇の子孫でした。他に一条家後陽成天皇の子孫です。近衛信尹には後継者に恵まれず、後陽成天皇の皇子が信尋として近衛家を継承し、また一条内基も同様に後陽成天皇の皇子が継承して一条昭良となります。

 

問題は伏見宮家も一条家近衛家も男系皇孫であり、しかも天皇家に血縁的に近いのは近衛家一条家の方です。近衛基煕が霊元天皇をある意味ないがしろにしたのはこの関係があるかもしれません。

 

この段階では桂宮家も近衛家一条家よりも天皇家から遠縁になります。有栖川宮家は血縁では同等になりますが、結局近衛家一条家よりも近い血縁が必要とされたのでしょう。

 

東山天皇の二宮、つまり中御門天皇の弟の直仁親王が宮家創設と1000石を与えられて閑院宮家を創設します。これは結果論からいえば大成功でした。現在の皇室は閑院宮家の直系子孫になります。

 

ちなみに立命館大学が学祖として喧伝している西園寺公望ですが、男系をたどると以下のようになります。

東山天皇直仁親王鷹司輔平鷹司政熙鷹司政通徳大寺公純西園寺公望

ちなみに東山天皇以降の天皇系図を引くとこうなります。

東山天皇直仁親王典仁親王光格天皇仁孝天皇孝明天皇明治天皇

 

ちなみにこの世襲親王家のその後の流れですが、以下のようになります。

伏見宮

明治天皇の皇女の嫁ぎ先として分流が多く作られ、現在残っている「旧皇族」の祖先。

桂宮

淑子内親王が最後の宮家当主として女性宮家となったが明治14年薨去し、断絶。

有栖川宮

4代目の正仁親王が早世したため霊元皇子の職仁親王が継承し、幕末には熾仁親王が活躍するが、熾仁親王の皇子の威仁親王薨去によって1913年に断絶。威仁親王の後継者であった栽仁王がすでに薨去していたため。祭祀は大正天皇皇子の宣仁親王が継承。有栖川宮の旧名高松宮の名前を継承。

閑院宮

言うまでもなく現在の皇室の先祖。閑院宮家自体は光格天皇の兄の美仁親王ー孝仁親王ー愛仁親王と続くが愛仁親王の早世で1842年断絶、宮家自体は愛仁親王の母の鷹司吉子が当主格となり、伏見宮家より載仁親王が養子として1871年に継承するが、皇子春仁王の時に終戦皇籍を離脱し、閑院春仁と名乗り、1988年逝去。

 

以上となります。