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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座5月第3回「江戸中期の天皇」2

5月16日(木)のオンライン日本史講座です。

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大嘗会という儀式があります。現在は大嘗祭と呼ばれます。本来前近代のこの儀式は大嘗会というべきですが、このエントリでは大嘗祭に統一します。一言で言えば天皇が神に神饌を捧げ、天皇も共に食す儀礼ですが、天皇が神と同衾することで神と一体化する、という側面があることも指摘されています。

 

基本的には天皇が即位したあとの新嘗祭を特別に大嘗祭と呼びます。新嘗祭は11月23日に行われます。現在の勤労感謝の日です。

 

ちなみに今上天皇即位礼正殿の儀は令和元年(2019年)10月22日に、大嘗祭は同年11月14・15日に行われます。10月22日火曜日は祝日となります。

 

この儀式は後土御門天皇までは行われてきましたが、後土御門天皇を最後に200年以上中絶しています。

 

もっとも大嘗祭を行なっていない天皇はそこそこ存在していまして、大嘗祭を行なっていない天皇を「半帝」というのは正しくありません。「半帝」と呼ばれたのは仲恭天皇で、践祚しただけ、という段階で廃位されたための呼称です。

 

南朝天皇は後醍醐を除きもちろん大嘗祭を行なっていません。

 

北朝天皇でも崇光はやっていません。『看聞日記』にも後花園の大嘗祭について述べる際にそのことが述べられています。貞成にとって後花園の大嘗祭は崇光の無念を張らずものと映ったのです。

 

霊元天皇大嘗祭を復活させたことは以前に述べました。大嘗祭に先行する御禊行幸を省略するなどかなり略儀にはなっていますが、内裏に伝わる史料を丹念に収集して大嘗祭を復活させた執念には驚かされます。

 

しかしこれは幕府や近衛家の反発もあって霊元天皇は失脚し、東山天皇の親政となります。その時に東山天皇の譲位を受けて践祚した中御門天皇大嘗祭を経験していません。

 

中御門天皇は第一皇子に譲位します。桜町天皇です。興味深いのは桜町天皇の外祖父が近衛家熙であることです。家熙の父の基煕は桜町の曽祖父の霊元が蛇蝎のごとく忌み嫌った人物です。

 

桜町天皇皇位を継承した時には実は大嘗祭をやる雰囲気にはありませんでした。どれくらい大嘗祭をやらない雰囲気だったかと言えば、桜町天皇への譲位の前年に幕府が大嘗祭の復活を朝廷に申し入れ、さらに費用の負担も申し出たことがあったにも関わらず、朝廷の方でそれを断ってしまったほどでした。

 

間違いではありません。幕府が大嘗祭復活を朝廷に勧め、朝廷がそれを断っているのです。霊元の時とは反対です。何があったのでしょうか。

 

当時の将軍は暴れん坊将軍徳川吉宗でした。暴れん坊だったかどうかはさておき、吉宗は倹約というイメージが強いのですが、その甲斐あって幕府財政は好転しており、朝廷に資金を提供する余裕があったことは大きいと思います。また吉宗は好奇心旺盛で漢訳洋書の輸入解禁を行い、またベトナムから象を輸入し、中御門天皇にも見せるなど、文物を貪欲に取り入れていました。その延長線上に幕府主導による大嘗祭復活の動きがあると言えるでしょう。

 

近衛基煕の孫の近衛家久が関白から退くと朝廷は神今食(じんこんじき)か新嘗祭の復活を幕府に申し入れます。しかし幕府はこの提案に対し、代初めの大嘗祭と神今食または新嘗祭の復活を提案します。

 

それに調子づいたか、朝廷は嘉吉二年以来中絶していた七社奉幣使と元亨元年以来中絶していた宇佐宮・香椎宮奉幣使の復活にも成功します。七社奉幣使は後花園天皇以来、宇佐宮・香椎宮奉幣使は後醍醐天皇以来の復活です。さらに調子に乗ったか朝廷は祈念穀奉幣使も求めますがそれはさすがに却下されました。

 

七社奉幣は天皇即位の奉告や国家危急の際に行われるもので、後花園天皇の時に行われたのが中絶したのはなぜなのか、今のところわかりませんが、少し勉強したいと思います。

 

このようにして天皇の神聖性が強調され、権威が上昇するのは、朝廷と協調していた幕府にとっても好都合な状態でした。吉宗がかなり太っ腹に朝廷儀式の復興に力を入れたのは、霊元・東山・中御門の努力もあって、天皇権威の強化が幕府にいい影響を及ぼすものとみなされていた、という側面は見逃せないと思います。しかしそれは諸刃の剣でもありました。この辺の矛盾が浮上するのが宝暦事件だったと言えそうです。

 

宝暦事件尊王思想が摂関や幕府への敵視に転換することを示した事件です。次回の予告では宝暦事件とその顛末について述べたいと思います。