オンライン日本史講座5月第3回「江戸後期の天皇」予告1光格天皇登場
皇位継承者がいなくなって慌てるのは意外と多いということが、天皇の歴史を追いかけているとわかります。
武烈天皇から継体天皇、称徳天皇から光仁天皇、四条天皇から後嵯峨天皇、称光天皇から後花園天皇、そして今回の後桃園天皇から光格天皇です。
思いっきり古く、まだ血統による相承原理が確立していない時期はともかく、四条天皇の場合は万が一に備えて用意周到に準備は内々に進めていたことは仲恭天皇の扱いや岩倉宮、後嵯峨天皇の扱いを見てもよく分かります。
称光天皇から後花園天皇が一番ある意味綱渡りだったかもしれません。もちろんこれは天皇の血統が絶える心配ではありません。逆に皇位継承可能性を持つ人物が多すぎたこと、さらには後小松上皇の腰が定まっていないことが一番の問題ではなかったか、と考えています。
後桃園天皇と光格天皇の場合はそれに比べると問題は少なそうに見えます。伏見宮家・桂宮家・有栖川宮家・閑院宮家が並び立っており、候補者がしっかりしています。しかも称光天皇の場合のように皇位継承にギラギラした野望を持つ伏見宮家や小倉宮家のような宮家ではなく、木寺宮家や常磐井宮家のように慎ましやかな宮家ばかりのような印象があります。
それでも皇位継承を話し合う場では誰を擁立するか、という擁立する側の意見が食い違うと面倒臭いことになりかねません。
近衛内前が伏見宮家の貞敬親王を推し、九条尚実は閑院宮家の師仁親王を推します。後桜町上皇は貞敬親王を推したようですが、どういう経緯か、師仁親王に決まったようです。決め手は血縁の近さでしょう。伏見宮家は天皇家から分家したのが四百年近く前で、さすがに四百年前に分家した家から迎えるのは抵抗が大きかったようです。しかし後桜町上皇や近衛内前が伏見宮家から迎えようと動いたということは、男系子孫であればよい、という考え方も存在していたことを示しています。
閑院宮家の当主であった美仁親王ではなく、聖護院に入室する予定であった六宮の師仁親王が選ばれたのは、後桃園天皇の皇女の欣子内親王と結婚する形で皇位を継承することが望まれていたからでした。
光格天皇の幼少期を補佐し、教導したのは後桜町上皇でした。光格天皇は傍系から継承したことで権威を軽く見られ、権威を確立できない状況でした。その天皇に対して学問を奨励し、光格天皇の権威上昇に力を貸しました。閑院宮家と天皇家の間に学問などをめぐる齟齬がなかったのが光格天皇には幸いしたと言えるでしょう。
というのは、後花園天皇の場合はそこがうまく行かなかった節があります。例えば元服しても学問や楽が始められず、貞成親王が消息を送って叱責することもありました。楽では笙か琵琶で決められず、学問も足利義教の鶴の一声で始める始末で、義教が後花園天皇の権威向上に必死になって尽くさなければならない状況が現出したのです。これ、要するに伏見宮家の顔色を伺う義教にも責任があるのではないか、と思います。後光厳皇統の伝統を引き継がせておけば問題はなかったのでしょうが、義教自身が後小松上皇のことを嫌っているという状況もあって、そこのところがうまく行かず、後小松崩御後にいろいろ動き出しているところが見られます。誰が悪いか、といえばみんなそれぞれ問題があったと思いますが。
それに比べると光格天皇の場合は後桜町上皇からのバックアップがスムーズに受けられて光格天皇の権威は順調に確立されていきます。後桜町上皇はしばしば天皇のもとに御幸し、アドバイスを与えていたようで、明正上皇の場合とは幕府の扱いが根本的に異なっているのも興味深い点です。
後桜町上皇に関しては天明の大火で焼け出され、青蓮院に避難していましたが、隣の知恩院に住む彼女の母親の元に幕府が廊下を作って通えるようにしたのは、後光明天皇が後水尾上皇に会いに行けるように幕府の裏をかいた話と比べると朝幕関係の良好さが伺えます。
天明の大飢饉は主として東北地方に惨禍をもたらしましたが、天明七年には上方でも打ちこわしが頻発し、飢饉の影響が及んでいました。
京都では飢饉の中、米価が上昇し、打ちこわしの代わりに御所への千度詣りがおこなわれ、最初は少数だったのですが、やがて大群衆となり、後桜町上皇はりんご3万個を群衆に与えるなど、朝廷でも様々に対応しています。
これは飢饉やそれによって引き起こされた米価の高騰に対応できない幕府への批判に繋がるために、京都所司代は抑圧しようと動きますが、後桜町上皇や光格天皇からはそのままにするように、という意向が示され、結局上皇・天皇の言い分が通ってしまいます。
そのような中、光格天皇と叔父の鷹司輔平(光格天皇父の典仁親王の弟)が幕府に救民を行うように要求し、幕府に御救い米1500石を放出させました。本来ならばこの行為は禁中並公家諸法度に違反している行為であり、天皇に厳罰を下すことはできないものの、伝奏や議奏になんらかの処罰がおこなわれかねない行為でしたが、幕府はそれを不問に付します。ただこの時の京都所司代の戸田忠寛は罷免されてしまいます。
飢饉の時に朝廷が幕府に救済を申し入れるのは先例となり、天保の飢饉の時にはそれが自然におこなわれています。
こうして朝廷、特に光格天皇は京都市中で権威を向上させることに成功し、光格天皇は朝廷内でもプレゼンスを向上させていきます。
天皇の歴史6 江戸時代の天皇 (講談社学術文庫) [ 藤田 覚 ]