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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座5月第3回「江戸後期の天皇」予告2尊号一件

とかく影の薄い江戸時代の天皇の中でも孝明天皇は幕末維新という時代の関係で露出が高い天皇ですが、光格天皇も非常に目立つ天皇です。特に上皇生前退位という話題で上皇以前に退位したのが光格天皇であったことが光格天皇に注目を集める大きな理由になっています。

 

それ以外にも光格天皇といえば追号を取りやめ諡号に切り替わったたことでも有名です。またそれに伴い「天皇号」が復活したことでも知られています。

 

我々は何の気なしに「後花園天皇」とか「後小松天皇」とか書いていますが、実際には「後花園院」であり「後小松院」です。冷泉天皇が「冷泉院」となって以降、「〇〇院」という形になっていたわけです。しかしこの光格天皇以後は「〇〇天皇」という形になり、大正時代に「〇〇院」も全て「〇〇天皇」に統一することになったのです。

 

この光格天皇は傍系から入ったために自らの権威向上には非常に貪欲でした。その光格天皇の最大の悩みは父親の典仁親王が叔父の鷹司輔平よりも下座にあることでした。というのは当時の席次は天皇ー摂関ー現任大臣ー親王という順番だったからです。そして鷹司輔平閑院宮家から鷹司家を継いだために宮家の当主よりも上座に座ることとなったのです。

 

これは面子にこだわる光格天皇にとってはゆゆしい問題でした。そこで光格天皇天皇の父親に太上天皇号を奉った例に倣って典仁親王太上天皇号宣下を計画します。

 

天皇の父親に太上天皇の尊号を奉った例は2例です。後堀河天皇の父親の守貞親王行助入道親王後高倉院)と後花園天皇の父親の貞成親王(道欽入道親王後崇光院)です。

 

幕府は尊号宣下には反対の姿勢を示しました。幕府のいうには後高倉院の例は承久の乱のあとの緊急事態、後崇光院の例は正平の一統による皇統の分裂という非常事態の収拾のため、ということで、これらはいずれも戦乱による緊急事態を回避するための止むを得ない手段である、ということで、今回の問題とは切り離すべきである、というものでした。

 

幕府の反対に直面した光格天皇は関白鷹司輔平を更迭し、一条輝良に代えました。さらに武家伝奏正親町公明に代えました。その上で参議以上の公卿を集め、勅問を下しました。本来は政務に関与しうる五摂家のみが勅問に与るのが通例でしたが、光格天皇の強硬な姿勢を貫くために朝廷全体の総意という形を取ろうとしたのです。のちに幕府でも広く外様の雄藩にも政治参加の道を開きますが、案外光格天皇のこのネゴシエートの手法を真似たのかもしれません。

 

鷹司輔平親子だけは相変わらず反対です。輔平にとっては幕府を強く刺戟することは朝幕関係を揺るがし、ひいては朝廷の立場を悪化させかねないものに見えたのでしょう。

 

実際当時の幕府の執政である老中首座の松平定信光格天皇の読みをはるかに超えた強硬姿勢で朝廷に臨んできました。

 

ミクロな視点で言えば光格天皇は甘かった、と言えるでしょう。光格天皇が君臣の序列よりも親子の情を優先したことは、厳格な朱子学者である定信にとっては到底容認できないことだったのです。一方光格天皇にとっては定信をそこまで刺戟するとは思っていなかったのではないでしょうか。

 

光格天皇は何度も幕府に申し入れ、幕府はきっぱりと拒絶し、天皇は宣下の実行を宣言しましたが、幕府は武家伝奏議奏の江戸召喚を通告し、光格天皇の動きを真正面から潰しにかかります。

 

光格天皇も召喚には応じない、新嘗祭の親祭は中止すると強硬姿勢で対抗しますが、光格天皇の抵抗もそこまででした。一歩も譲らない定信の姿勢を前に光格天皇も折れてしまい、公家の召喚にも応じることになってしまいました。さらに尊号の宣下も中止することになりました。

 

定信はさらに追い討ちをかけます。従来公家の処罰に対しては官職を帯びている場合は朝廷がその公家を解官した上で幕府が処罰をします。つまり朝廷の自治を形式上は重んじていたわけです。しかし定信は解官しないまま公家を処罰しました。定信が振りかざした論理は、武家も公家も等しく天皇に使える臣下である、にも関わらず両者を区別するのは却って天皇に不忠となる、というものでした。

 

定信のこの裁定の背景にある思想を大政委任論といいます。定信は日本を天皇が統治する皇国であると考えていました。そして幕府は天皇から大政を委任されていると考えたのです。これが大政委任論です。

 

定信の大政委任論はどのような背景で出現してきたのか、ということについては次回のエントリで述べようと思います。