足利義昭袖御判御教書(『朽木家古文書』国立公文書館)
月曜日恒例の古文書入門です。
本日は足利義昭袖御判御教書です。
釈文です。
⬜︎⬜︎(近江)国高嶋郡名字地
⬜︎⬜︎(等知)行分所々事、如祖父
⬜︎⬜︎(信濃カ)守稙綱時、朽木弥五郎
⬜︎⬜︎(元綱)領知不可相違之状
⬜︎(如)件
永禄拾壹年十月十四日
料紙の天(上の部分)の破損が大きいので上の二文字分がほぼ壊滅していますが、逆に大体決まっていますので特に問題なく補うことができます。
一行目はそもそも高嶋郡で朽木家の文書であれば近江国以外にはあり得ませんし、二行目は「名字地⬜︎⬜︎行」と来たら、後ろ部分は「知行」は確定していますし、「名字地⬜︎知行」と来たら大体「等」以外には来ないだろうと分かります。
読み下しです。
近江国高島郡の名字の地等、知行分の所々の事、祖父信濃守稙綱の時の如く、朽木弥五郎元綱の領知相違あるべからずの状、件の如し。
特に難しいことはありません。
近江国の高島郡の名字の地である朽木荘など、知行しているあちらこちらの所領のことについて、祖父信濃守稙綱の時と同様に、朽木弥五郎元綱が領知していることについては間違いがない、ということを証明する書状である。以上。
祖父の稙綱の土地を相続しているのは、父の晴綱が戦死しているからです。
この永禄11年(1568年)は元綱にとっては試練の時期だったようです。浅井長政による高島郡の侵攻を受け、12月には浅井長政の支配を受け入れることを余儀なくされています。
一方発給者の義昭ですが、この年まで庇護を受けていた朝倉義景の元を離れ、織田信長の元に入り、上洛に成功します。この文書の発給の4日後には15代征夷大将軍に就任します。したがって義昭はすでに将軍気取りでこの御判御教書を出していることがわかります。
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次回は7月19日(金)午後2時からです。