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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座5月第3回「江戸後期の天皇」報告

「中世・近世の皇位継承」最終回となる「江戸後期の天皇」です

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光格天皇仁孝天皇孝明天皇です。

 

実際には天皇の話はそっちのけで箱館奉行とか、クナシリの話とか、そっちの方に行ってしまいました。

開国から日米通商条約を経て幕末維新という歴史の流れはよくご存知の方が多いので、ここではあまり詳しく踏み込むことはしません。動画の方をご覧ください。

 

ざっとアウトラインを述べておきます。

 

基本的には藤田覚氏の『江戸時代の天皇』をベースにしています。

 


天皇の歴史6 江戸時代の天皇 (講談社学術文庫)

 

 

光格天皇は在位36年で仁孝天皇に譲位します。そして太上天皇となります。彼が現在のところ最後の太上天皇となります。現在の上皇太上天皇ではなく、上皇が正式な称号です。光格上皇の場合は光格太上天皇となります。

 

光格上皇仁孝天皇のもとでは徳川家斉の官位上昇が進められていきます。家斉自身が傍系から徳川将軍家を継承したため、ことさらに権威を確立する必要があったのですが、その時にもっとも有効だったのが朝廷だったわけです。

 

家斉に恩を売った効果でしょうか、光格上皇崩御後に仁孝天皇諡号天皇号の復活を行います。諡号光孝天皇を最後に、天皇号は村上天皇を最後に途絶えます。宇多天皇からは追号のみとなり諡号は見送られ、天皇号も冷泉院以降は院号となります。

 

院号自体は天皇でなくても死後にはつけられるので、天皇号の復活は他の臣下とは隔絶した存在となることを意味しています。

 

天皇号や諡号がなくなり、追号院号となるのは、遠山美都男氏によれば、ローカリズム王権への転生ということです。

 


名前でよむ天皇の歴史 (朝日新書)

 

 そもそも「天皇」というのが「天」という普遍的概念に対応したものです。日本が「天」から離脱したころから諡号天皇号はもはや必要ないとなった、と考えることもできましょう。

 

天皇が「院」とされていた時期、天皇は確かに華夷秩序から離脱していました。華夷秩序に参加していたのは「日本国王」であり、「日本国大君」であったわけで、彼らは国内においては形式上天皇の臣下であっても、彼らの上に存在する天皇華夷秩序の中に入ることはなかったのです。

 

しかしロシアの南下による対外危機の中で日本の為政者は皇国としての日本という形で天皇を国の中心に据えていきます。松平定信の大政委任論はまさにその表れです。

 

定信失脚後の幕府政治は混迷を極め、一方で日本近海における外圧は高まっていきます。不凍港を求めて南下を続けてきたロシアに続いて、太平洋に到達したアメリカが捕鯨の補給地を求めて日本近海に出没するようになります。

 

ロシアとこじれ、フヴォストフによる蝦夷地襲撃を経た幕府は「鎖国」を「祖法」として墨守する姿勢を示し、異国船打払令を出し、文字通り国を閉ざす方向に向かいます。統治者としての力を喪失した幕府には外交主体として日本を導くことはできず、鎖国を唱えて面倒な外交交渉から逃避します。

 

そのような内向きの姿勢の中で「征夷大将軍」に新たな意味付けが与えられます。

 

もともと「征夷大将軍」は「エミシ」を征伐する令外官でした。源頼朝は「大将軍」を要求し、朝廷サイドが「征夷大将軍」を選び出した時、「征夷大将軍」には本来の意味が失われていました。頼朝は別に「征夷」をする予定はなかったのです。

 

その後は惰性で征夷大将軍の称号が使われています。藤原頼経宗尊親王、あるいは足利尊氏足利義昭徳川家康も「征夷」を目指したわけではありません。

 

しかし対外情勢の悪化とそこからのややこしいことから逃避した幕府にとっては「征夷」に新たな意味が付与されたのです。つまり「鎖国」の完徹です。

 

そのころになると「鎖国」は単に幕府の自己防衛だけではなく、朝廷もまた「鎖国」「征夷」という言葉に引っ張られ、幕府を皇国の守護者として「鎖国」を貫徹するものとして頼りにするようになります。

 

しかしその強気もアヘン戦争によって無残にも打ち砕かれました。清ですら全く歯のたたなかったイギリスをはじめとした列強が日本の周辺をうろついている、ということで最低限の関わりを持つことを許容せざるを得なくなります。薪水給与令です。

 

孝明天皇は頑強な攘夷論者でした。海防強化を命じます。しかしやがてアメリカ合衆国東インド艦隊長官マシュー・C・ペリーが来航し、開国を要求します。

 

朝廷では議論がなされましたが、鷹司政通が開国論を唱え、朝廷の許可のもと、日米和親条約の締結に至ります。

 

駐日アメリカ公使のタウンゼント・ハリスは通商関係締結の交渉を老中堀田正睦と行いますが、堀田正睦は勅許を得る必要はあるが、形式的なものとハリスには伝えた上で朝廷の勅許を得ようとします。

 

しかしここで堀田は致命的なミスを犯していました。彼は朝廷の許可を国論統一に利用しようとしていたのです。そしてここにいたって朝廷が幕府の方針に真っ向から反対するとは考えていなかったのでしょう。

 

朝廷内部では幕府の意向通りに通商条約締結に賛成しようという摂関家の意向と、幕府の思い通りにさせない、というそれ以外の公家との対立がはじまっていました。霊元天皇桃園天皇光格天皇の時に幾度も訪れた摂関家・幕府とそれ以外の公家の対立でした。禁中並公家諸法度では天皇を朝廷の最高経営責任者、摂関を最高執行責任者とし、伝奏と議奏がその補佐に回る形で、朝廷の運営にはそれ以外の公家は関わることはできませんでした。その不満がこの度も噴出したのです。

 

廷臣八十八卿列参事件が起こります。八十八人もの公家が内裏に参上し、通商関係の締結に反対します。その勢いを受けて鷹司政通も反対にあっさり回ります。哀れを留めたのは関白だった九条尚忠でした。

 

朝廷の思わぬ動きを見た幕府は彦根藩藩主の井伊直弼大老に任命し、強行突破を図ります。幕府内部にも朝廷や雄藩に押された一橋慶喜による大胆な幕政改革に期待を寄せる勢力と、従来幕政を担ってきた譜代大名に押された紀伊慶福による従来通りの幕政を推進しようとする勢力、という対立がありました。後者に押された大老井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を締結します。

 

それに憤激した孝明天皇は幕府と水戸藩に条約破棄を迫る密勅を下します。これは体制委任論からも逸脱していますし、当然書禁中並公家諸法度にも違反しています。

 

幕府は水戸藩に処分を下します。安政の大獄です。水戸藩徳川斉昭をはじめ、斉昭の子で一橋家を継承していた徳川慶喜も処分されます。勤王の志士と呼ばれた人々はその多くが処刑されました。

 

その作用は桜田門外の変として現れます。井伊直弼は暗殺されてしまいました。

 

その後は安藤信正による文久の改革が行われ、公武合体というスローガンのもと、朝幕関係の協調が図られます。和宮徳川家茂徳川慶福のこと)への降嫁をはじめ、天皇陵の修築が行われます。

 

通商による経済の混乱の中で尊王攘夷論は高揚し、尊攘派が台頭してきます。坂下門外の変安藤信正が襲撃され、失脚します。その後は薩摩藩島津久光をはじめとした雄藩による幕政が試みられ、彼らに押された一橋慶喜将軍後見職に就任して尊攘派を抑えていくようになります。

 

朝廷では九条尚忠が失脚し、ついに清華家三条実美らによって朝廷の実権が掌握されます。ここに摂関家最高執行責任者として形作られてきた江戸時代の朝廷の秩序は崩壊します。尊攘派の公家と尊攘派志士が組んでテロルによる朝廷の掌握の中で生身の天皇は自身の考えから乖離し始めた現状に苦慮し、ついに尊攘派公家と志士の排除に乗り出します。八月十八日政変です。尊攘派は排除され、薩摩藩慶喜主導による雄藩連合政権を経て、一会桑政権が樹立されます。将軍後見職一橋慶喜・京都守護松平容保会津)・京都所司代松平定敬(桑名)の家名や藩から名前が取られています。

 

長州征伐を実行しますが、薩長同盟が成立していたことにより失敗し、家茂と孝明天皇が急死して全てが終わります。あとは戊辰戦争まっしぐらですが、ここ以降はねぐります。