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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

ヤマトと百済の関係ーオンライン日本史講座「白村江の戦い」予告2

5月30日午後8時30分からの「白村江の戦い」の予告編2です。この辺は専門外なので間違っている可能性も高く、いつでも訂正する気満々です。いろいろ読んでみてもいろいろな人がいろいろなことをおっしゃっているので、どれを採用していいかわからないので、いろいろ勉強しています(汗)。

 

したがって以下に述べますのは私の独断と偏見に満ちた見方であることをお断りしておきます。

 

白村江の戦いの遠因として挙げられるのは、やはり百済とヤマト(倭)の強固な関係でしょう。百済が滅亡し、百済亡命政権がヤマトに救援を求めた時、ヤマトにとっては何も百済の要請に応じる義務などないのです。

 

ここで百済救援に成功すれば半島地域にヤマトの傀儡国家を作り上げることができる、というのはあまりにも希望的観測です。当時の斉明天皇の状況から見れば、その程度の夜郎自大な対外認識であったとしても不思議ではないとは思います。しかし実際当時の政権の動向を決定していたのは斉明だけではなく、中大兄皇子も大きな力を持っていたことは間違いがないでしょう。女王と有力な王族の共同統治という、推古朝以来の形態をとっていたのではないか、と勝手に考えています。

 

中大兄皇子はなぜ無謀にも唐との戦争に引きずられていったのでしょうか。斉明を止めることは叶わなかったのでしょうか。

 

そこには百済との長く深い関係があったのではないか、と思われます。

 

百済とヤマトの関係は4世紀半ばには始まっていたようです。これは強大な力を持つ高句麗を牽制するために百済が海域アジア島嶼部の日本列島に成立していたヤマトと連携したものと思われます。

 

399年には高句麗の広開土王とヤマト・新羅百済連合軍が戦い、連合軍が敗北して半島部における覇権を高句麗が掌握します。

 

高句麗という強大な国家を前にして百済や半島南端部の加羅諸国伽耶諸国)はヤマトの軍事援助を受けるようになります。特に統一王権の成立が遅れていた伽耶地域では資源や先進技術の提供の見返りにヤマトの軍事拠点が構築されていきます。これがのちに『日本書紀』に「任那日本府」として表現されるようになります。

 

5世紀に入ると倭讃が宋(後の日宋貿易の宋と区別して劉宋という)に遣使します。いわゆる倭の五王です。

 

讃・珍・済・興・武で、特に倭武の上表文はよく知られているところです。

 

この段階の倭の五王で注意するべきこととして、まずこれが天皇家の系譜と重なるところが多いと言われるところです。例えば倭讃は応神天皇仁徳天皇履中天皇、珍が反正天皇、済が允恭天皇、興が安康天皇、武が雄略天皇という具合です。

 

このうち武が「獲加多支鹵(ワカタケル)」という諱を持つ雄略天皇と言われています。

 

倭武は稲荷山古墳から出土した鉄剣に「獲加多支鹵」と刻まれた雄略天皇になぞらえられており、その意味では『古事記』『日本書紀』以外の文献および考古資料からその自在が確定できる最古の天皇ということになります。

 

彼らは実は「倭讃」「倭珍」というように記されているため、この「倭」というのは国号であると同時に彼らの姓ではないかとも考えられています。もしそうだとすれば天皇家の先祖はある段階で姓を持たなくなる、と考えられます。

 

雄略天皇の時期には大きな転換が訪れたようです。倭の五王の最後の遣使となった武の478年の劉宋の状況は悲惨なものでした。

 

当時の皇帝は順帝で前年の477年に即位しています。当時の宋は北魏の軍事的圧力、帝室の内紛などで急速に衰え、蕭道成が実権を掌握していました。蕭道成を除こうとした後廃帝は蕭道成に殺され、代わりに皇帝になったのが当時8歳の順帝です。

 

武が遣使した翌年には蕭道成は順帝の禅譲を受け、ほどなく順帝は蕭道成(斉の高帝)により殺害されます。

 

武こと雄略にとってもはや中華帝国は自らの権威づけには使えない、ということをはっきり思い知ったでしょう。雄略は「天」に代わる「天下」概念を持ち出し、「天下」を治める存在として、それまでの王とは隔絶した新たな「大王(おおきみ)」となります。

 

雄略は『日本書紀』では「大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)」と言われています。多く人々を殺害したことを指しています。

 

雄略のスタートは兄の安康天皇を暗殺した眉輪王を殺す際に自らの兄二人も殺しています。そして王に登っていますから、これはクーデタを通じてのし上がったと言っていいでしょう。その時有力外戚であった葛城円も殺されています。さらに履中天皇の皇子も族滅しています。

 

こうして自らの一族と外戚を族滅して王位についた雄略は、それまでの王とは異なる隔絶した権力を保持するようになった雄略はさらに吉備氏を攻め、このころより地方における前方後円墳は見られなくなります。巨大前方後円墳を作る資格が大王に制限されていくのでしょう。

 

さらに雄略は高句麗と戦い、一旦滅亡した百済を復興させた、と『日本書紀』には書かれています。

 

雄略の時に葛城・平群・吉備というような地名を氏族名とする旧来の豪族が没落し、代わって大伴・物部のような職掌を以って大王に仕える豪族が台頭してくることも指摘されています。要するにそれまでの平群・葛城というような「地名」プラス「臣」という形の氏族は、「倭」という地名を氏族名とする王家と肩を並べるような存在だったのでしょう。そもそも血統による相承原理が成立する以前では王権を担う複数の氏族の一つだったかもしれません。

 

たとえば三輪山の麓の「イリヒコ」という名前を共通して持つ崇神天皇(ミマキイリヒコイニヱ)、垂仁天皇(イクメイリヒコイサチ)から「ワケ」という名前を共通して持つ応神天皇(ホムタワケ)、履中天皇(イザホワケ)、反正天皇(ミツハワケ)へと皇統が動くという、「イリヒコ王朝(三輪王朝)」から「ワケ王朝(河内王朝)」へという図式が提示され、古代日本における王朝交代論が提唱されたこともありました。今日でも応神天皇から天皇の歴史を書き始める書物はこの影響を受けている、と言っていいでしょう。

 

応神天皇については彼の妻が景行天皇の皇子イオキイリヒコの娘のタカキイリヒメであるとされており、仮に応神天皇景行天皇日本武尊仲哀天皇の子ではないとしても、景行天皇の有力な一族である、ということは言えそうです。更に言えば当時の王位が一系統にのみ継承されていた、というのは、その後の天皇の歴史から見ても首肯し難いところで、当然いくつかの系統に分かれていたとしても不思議ではありません。これを王朝交代といえばそうも言えますが、系統の中の移動である、と考えることもできます。

 

雄略天皇による大幅な皇族の粛清は、いくつかの系統により分担されてきた王位の整理であり、自らの直系のみに王位を継承していこうとする試みであった、とは考えられないでしょうか。そしてこのような隔絶した強大な王権を樹立した雄略はそれゆえに敵を多く作り、多く殺し、「大悪天皇」としてその名を残し、今にその悪名を伝えているのではないでしょうか。

 

しかし雄略の仕事はその後の日本列島にも巨大な刻印を残した、と私は考えます。まあ国粋主義的な言葉をあえて使いますと、今日につながる日本の国柄を確立したのは雄略天皇だった、と言えないこともないと思います。

 

雄略天皇の時期に大王を中心とするヤマト王権は確立しました。そして氏族名は大王から賜与されるものとなり、氏族名を賜与する主体となった大王家は氏族名を使わなくなります。これも雄略の時期の大転換だった、と言えなくはないでしょうか。

 

今回の話を作るのに一番参考にしたのは大津透氏の『天皇の歴史 神話から歴史へ』です。

 


天皇の歴史1 神話から歴史へ (講談社学術文庫)