大化の改新ーオンライン日本史講座「白村江の戦い」予告3
大化の改新は難しいです。
5月30日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座「白村江の戦い」のお知らせです。
受験対策(一応中学受験国語・社会の受験指導を本職としています)ではここは一瞬で終わります。
蘇我氏の専横→天皇中心の国を作ろうとした中大兄皇子・藤原鎌足(中臣鎌足)が蘇我入鹿を殺し、年号を大化と定め、公地公民制や戸籍を作成するなど、新たなくじづくりを始める。この一連の動きを「大化の改新」という。蘇我氏を滅ぼしたのが645年、改新の詔は646年、ここの一年違いは引っ掛け問題として出るのでしっかり覚えておくように。以上!
受験指導では出るものを覚えさせる必要があります。自分の思想に合わないから、といって覚えさせないというのは受験指導者として失格です。かつて「出るから教えるという姿勢はいかがなものか」とか放言していた大学の教授や新聞社があったのですが、論外です。
ところが中大兄皇子と中臣鎌足が主犯という説以外にも、主犯は孝徳天皇と蘇我倉山田石川麻呂で、中大兄皇子と鎌足はパシリだ、とか、中大兄皇子も実は皇極天皇とともにやられた方だとか、そもそも大化の改新などなかった、とか、いろいろ言われています。まあ「大化の改新はなかった」といっても蘇我氏を滅ぼした乙巳のクーデタまで否定するわけではありません。その後の天皇中心の中央集権国家を作る一連の動きは、『日本書紀』が盛っている、という考え方です。
ここで仁藤敦史氏の見解に沿ってこの事件を見ていきます。
NHKさかのぼり日本史 外交篇[10]飛鳥~縄文 こうして“クニ"が生まれた なぜ、列島に「日本」という国ができたのか
百済との関係にこだわる蘇我氏を中心とした伝統的な路線と、唐・新羅に接近しようという路線に分かれていた、ということです。
そこで注目されているのが、孝徳天皇です。彼は唐に接近するために百済派の女帝である姉の皇極天皇を引き摺り下ろし、自らが皇位についた可能性がある、といいます。
確かにこう考えると、その後孝徳天皇を無力化し、自らが重祚した皇極天皇改め斉明天皇が百済に肩入れする理由も、巨大な権限を振り回し、暴走した末に百済救援事業という無謀な事業に、わざわざ自らが筑紫にまで赴いた理由も説明できます。
もっともこの辺については倉本一宏氏が、孝徳天皇が主体となるには孝徳天皇のもともとの地位が低すぎるため、主導したのは中大兄皇子だろうと述べています。
の中の倉本氏の担当部分です。
この辺は私にはどれを採用すれば一番無難なのかわからないのですが、今回の講座では仁藤氏の見解に沿って話を進めていきたいと思います。今の所の私の頭の中にある斉明天皇のイメージにも合致します。
戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで (講談社現代新書) [ 倉本 一宏 ]
実際の講座では推古朝と「聖徳太子」についても触れていきたいと思います。
この辺は中国文明のインパクトをどのようにヤマトが受容し、自らを変貌させていくか、というあたりがポイントで、様々な可能性の中からいわゆる「古代国家」が成立してくる過程なのだろうと思います。