前九年の役と後三年の役予告2ー武士団の形成
武士団の形成です。
6月13日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座の予告編2です。
太秦の映画村に行った時、目の前を小学生が「武士って何〜?」と叫びながら走って行きました。私は思わず「まあ座れ。今から一時間半武士とは何かを話してやろう」と思いました。
「武士って何〜?」という問いに対する回答として理解しておかなければならない前提がいくつかあります。
まず王朝国家の成立です。
10世紀初頭、唐・新羅が滅亡します。これは古代国家の限界の露呈である、と私は考えています。古代国家とは何か、ということですが、ここでは中央集権制と人身支配を基礎とした専制国家としておきます。戸籍などにより、人民を個別に把握し、人身に徴税を行う、というシステムは非常に手間がかかり、膨大なコストがかかります。
桓武朝のころには露呈してきた班田制の解体というのは要するに人身支配の破綻であり、班田制を中止する、というのは人身支配の放棄を意味します。
日本列島でこのような不効率な人身支配に基づく古代国家が成立したのは唐・新羅の圧力がありました。唐・新羅の脅威に対抗するためには一人一人レベルまで人口を把握し、彼らを徴用し、軍団を組織しなければなりませんでした。しかし唐・新羅の脅威が感じられなくなるとそのようなシステムは無用の長物となってきます。
このころ日本では院宮王臣家と言われる有力者が地方の有力者と結託して租税を納めない、という状況が常態化しています。こういう問題はおそらく唐・新羅でも問題になったのでしょうが、これにどう対応するのか、というのが一つのポイントです。
この時期、国司に徴税責任を負わせる「受領」の制度ができます。これは中央政府からすればもはや地方の中身については細かいことを言わない、ということです。定められた租税を朝廷に納めさえすれば内実がどうであろうと気にしない、というものです。「受領は倒れるところの土をもつかめ」という逸話は、そのような受領システムを背景としています。
受領システムでは国家はそれぞれの国司に請負額をきっちりと納めさせた上でその総額を固定化します。そしてそれに応じた総支出を固定化します。こうして身の丈にあった国家運営が行われました。
この辺は坂上康俊氏の次の著作を参考にしました。
律令国家の転換と「日本」 日本の歴史05 (講談社学術文庫)
武士を理解するためには地方の変化だけではだめです。地方の有力者と王臣家が結びついてその中から武士が生まれてくるわけですが、「武士」の「士」はどういうものだったのか、ということです。桃崎有一郎氏は武士の起源を中央の王臣家と地方有力者のハイブリッドと表現しましたが、その中央の部分は次のような感じになっています。
貴族とは、ごくごく大雑把に言いますと五位以上の官人です。その中でも上級層を公卿といい、参議以上を議政官といいます。それに対し五位をゴールとする、つまりゴールが貴族の末席という、特定の家職で王朝に奉仕する層を士太夫層といいます。武士というのは士太夫層のうち、武力という家職で朝廷に仕えたいわゆる軍事貴族とその家人たちをいいます。士太夫層のうち、諸国の受領を歴任する受領層が出現してきます。受領は熟国(播磨国・伊予国)、大国(陸奥国、但馬国など)上国、中国、下国とランク付けされた諸国受領を歴任して最後は参議をゴールとすることが多かったようです。もちろん参議にたどり着けたのは一部だけです。例えば源頼義は伊予国、平忠盛は但馬国でそのキャリアを終えています。
さて、武士とは何か、という話にはもう一つ、「職の体系」というタームを理解しないとはじまりません。ちなみに読みは「しきのたいけい」です。「職(しき)」とは職務権限とそれに付随する利権のかたまりです。「職」に任命されますと(これを補任(ぶにん)といいます)、その職務を行う一方でその利権を手にします。「職」の補任が特定の家に固定化していきます。これを「官司請負制」といいます。士太夫層は「職の体系」によって成立しました。
日本の軍事機構は律令農民の徴兵から成立していた軍団制から郡司の子弟による健児制を経て「兵の家」と呼ばれる軍事貴族による請負が行われていました。具体的には鎮守府将軍、諸国押領使、検非違使などの諸「職」が「兵の家」によって請け負われていました。
その「兵の家」の成立過程ですが、延喜の群盗討伐に功績のあった人々、具体的には平高望・藤原利仁・藤原秀郷の子孫が「兵の家」として固定化していくと言われています。実際には桃崎氏の指摘の通り、これがそのまま武士の始原に結びつくわけではなく、もっと複雑な過程を経ているのであり、その辺は桃崎氏の著作に述べられています。
武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世 (ちくま新書)
斎藤利男氏は軍事貴族と都の武者という分け方をしています。清和源氏・桓武平氏・秀郷流藤原氏のように代々「兵の家」として世襲するのを「軍事貴族」、そういう「兵の家」ではないものの、武力を持って鳴らした人々を「都の武者」としています。
この二つの違いを説明するのに使えるのが「金太郎が清少納言を殺しかける?」というネタです。
『古事談』には次のような話が載っています。
源頼光が四天王(渡辺綱・坂田金時・卜部季武・碓井貞光)に命じて清原致信を殺させた時、清少納言が同居していたが、法師に似ていたので殺されかけたが、尼であることを証明しようと着物の前をはだけた。
これは実際にはかなり違うようです。
清原致信は大和守藤原保昌の郎党でした。保昌と甥で大和源氏の棟梁であった源頼親と対立し、頼親の郎党であった当麻為頼の殺害事件に関与しました。それに対する報復として頼親は致信の邸宅を襲撃させ、殺害したのです。
致信が清少納言の兄であるのは事実です。致信や清少納言の父親は三十六歌仙の一人としても名高い清原元輔で、曽祖父は古今和歌集の歌人として名高い清原深養父です。したがって彼らは代々武力とはそれほど関係のない家です。にも関わらず致信は武勇に秀でた藤原保昌の郎等として殺害事件に関与し、彼自身も殺害されました。どうやら彼は武勇で保昌に仕えていたとしか考えられません。彼個人の意思で武力に手を染めていたのでしょう。
一方源頼親は大和源氏という武士団の棟梁で、彼の父親は源満仲、祖父は源経基という、代々武勇を以って仕えた家柄です。源経基は清和天皇の孫と言われており(陽成天皇の子孫という説もあり)、彼自身は承平・天慶の乱で活躍します。息子の満仲は摂津に勢力を扶植し、満仲の三人の子息の頼光・頼親・頼信はそれぞれ摂津源氏・大和源氏・河内源氏という軍事貴族を形成します。
陸奥国が動乱期に入ると陸奥国にも軍事貴族や都の武者が補任されるようになります。橘則光は清少納言の夫で武勇に優れた都の武者でした。同じく陸奥守の源頼清は河内源氏源頼信の子息です。しかしもっとも有名なのは頼信の長男の源頼義とその子源義家の親子です。