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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

奥州藤原氏ー戦争の日本史

奥州藤原氏とはどういう人々だったのでしょうか。

 

奥州藤原氏は一体全体どういう家なのか、というのは私も北方史に足を踏み入れるまではよく理解できていませんでした。ややこしい。

 

そもそも清原清衡藤原清衡に名前を変える意味が分からなかった。あのへんのややこしい兄弟関係を整理したら簡単にわかりますが。

 

私の場合「炎立つ」でだいぶんわかりやすく整理されました。藤原経清を世界の渡辺謙が、藤原清衡村上弘明が、そしてなんかショボい評価しか与えられてこなかった藤原泰衡渡辺謙の二役、最後は一人で山の中を彷徨う泰衡に川野太郎演じる安倍宗任が「経清殿!経清殿ではありませんか?」と声を掛けるシーンがラストシーンでした。川野太郎は次の大河ドラマ花の乱」でも後土御門天皇を演じて三田佳子演じる日野富子と少しいい感じになっていました。

 

実際泰衡の頭部を見るとそんな生易しい死に方をしていません。

 

ここを見るとかなり泰衡は抵抗したのちに壮絶な死を遂げたようです。(藤原四代のミイラの写真があります。気になる方は閲覧注意)

日本の人骨発見史5.中尊寺藤原氏四代のミイラ - 人類学のススメ

 

藤原清衡後三年の役の部でも説明しました通り、安倍頼時の娘と藤原経清の間に生まれ、前九年の役で母子で清原武貞に引き取られます。その結果、武貞の子はややこしいことになります。

 

まず武貞には長男の真衡がいます。そこに藤原経清の子の清衡が入ってきます。そして頼時娘との間に家衡が生まれます。つまり真衡と清衡は父も母も違う、真衡と家衡は母が違う、清衡と家衡は父が違う。これだけややこしいと最初から殺しあえ、と言っているようなものです。源義家ならずとも手を突っ込んで清原氏を内部から崩壊させたくなる、というものです。

 

最終的な勝者になった清衡は父親の姓に戻すことを願い出て認められ、さらに正六位上陸奥国押領使となります。基衡は出羽・陸奥両国の押領使となり、秀衡は従五位上陸奥守、鎮守府将軍を歴任し、陸奥・出羽両国にまたがる巨大軍事貴族が成立します。

 

秀衡の時に院近臣の藤原信頼の兄の藤原基成が下向してきて、基成の娘との間に泰衡が生まれます。奥州藤原氏もまた在地の武士団に絶えず都との関係を保ってきました。清衡・基衡は摂関家に接近し、摂関家領の代官のようなことをしていたようです。

 

秀衡は信頼との強いパイプを作り上げた、とも言え、もしそのまま平治の乱など起こらずに信頼が勢力を伸ばしていたら、あるいは信頼がもっとうまく清盛や義朝や秀衡を統御していたら、元木泰雄氏の言う通り、信頼は武家権門を作り上げた、と言えるかもしれません。

 


保元・平治の乱を読みなおす (NHKブックス)

 

もっとも信頼がそこまで構想し、実行するだけの人物であったかどうかというのも議論のあるところです。

 


陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

秀衡は源義朝の遺児の源義経を受け入れ、義経の兄の源頼朝が挙兵すると義経を頼朝の元に送り出し、義経が頼朝と対立するとそれを受け入れています。結果論からいえば最悪の敗着ですが、秀衡には父太郎と言われた国衡と母太郎と言われた泰衡がいて、最悪の場合両者の間で後継者争いが起こることを気にしていたのかもしれません。義経という都の関係者を擁立することで安定を計るのはよくみられることで、藤原基成にしてもそういう意味を持っていたのでしょう。

 

しかし頼朝は圧力をかけ、その圧力に負けて泰衡が義経を討った時に奥州藤原氏の命脈は尽きました。頼朝にとっては義経を討とうが討つまいが関係なかったのです。頼朝にとっては奥州藤原氏こそが最終ターゲットでした。

 

頼朝は頼義故実にしたがって奥州征伐を遂行します。東北を制圧した頼義に頼朝は自らを重ね合わせ、平氏追討を上回る規模で動員をかけます。それは頼朝が頼義の後継者という貴種であることを誇示し、源氏神話のもとに武士団を組織したことを意味します。本来河内源氏が他の源氏と比べて突出した存在ではないにも関わらず、頼朝以降武門の棟梁として河内源氏神話が再生産されていくのは頼義の前九年の役があったからなのです。

 

ちなみに征夷大将軍という肩書きですが、一時は鎮守府将軍であった奥州藤原氏を超える官職としての征夷大将軍という見方がなされていましたが、近年では征夷大将軍という地位が朝廷サイドで出されていることが明らかになり、征夷大将軍そのものにはこだわりがなかった、という見方になっています。

 

ただそれに関しても勘文から見てそう決めるのは早計である、という見方もなされていますし、私も頼朝サイドが単に「大将軍」だけを求めていた、とは考え難いとは思っています。少なくともいくつか忌避しているのは事実であり、ほぼほぼ征夷大将軍以外には適した肩書きはなかったことは事実でしょう。逆に征夷大将軍以外に適する候補があるのか、という気がしています。征東大将軍木曽義仲でアウト、惣官は平宗盛でアウト。征夷大将軍坂上田村麻呂の吉例があり、セーフ、と言ったら朝廷が結論を出したとしても、それが朝廷の主導であったか、という点については私も疑問を持ちます。詳しくは『立命館文学』624号の杉橋隆夫氏の論文をご覧ください。

 


源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

 

 

www.ritsumei.ac.jp

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/sugihasi.pdf(pdf注意)