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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

保元の乱の過程−戦争の日本史

保元の乱は小学校でも習う有名な戦乱です。だいたい平治の乱とワンセットで習います。「時はいいころ(1156)保元の乱」という語呂合わせを覚えさせられた方も多いかと思います。

 

保元の乱に関しては「貴族の争いに武士が動員され、武士の世の中になっていった」というように習います。というか、中学受験向けの社会ではそのように教えます。これは『愚管抄』に「武者の世」と書かれているように、保元の乱が一つの画期となったことは間違いがありません。

 

この直接のきっかけは1155年に近衛天皇が死去し、後白河天皇が即位したことに始まります。これについて、自分の皇子重仁親王が即位することになると思っていた崇徳上皇はかなり立腹したようです。

 

この背景には崇徳とその父鳥羽の不仲が関係しており、この両者の関係がかなりややこしいものであったかのように言われます。これについてはまた述べます。

 

近衛の後継者選びについては、鳥羽は様々な可能性を提示していたようです。近衛はまだ若く、皇子は生誕していません。そこで鳥羽の選択肢は五つあったようです。一つ目は鳥羽自身の重祚、二つ目は鳥羽の皇女八条院の即位、三つ目は崇徳皇子の重仁親王即位、四つ目は雅仁親王の皇子守仁親王の即位、五つ目が雅仁親王自身の即位です。一つ目と二つ目は実現しませんでした。おそらく重祚の先例は皇極斉明と孝謙称徳という女帝二人で、どちらもあまり吉例とは言えません。女帝は推古・皇極斉明・持統・元明・元正・孝謙称徳といますが、こちらも最後の女帝があまりにも何なのでやはり吉例とはいきません。後水尾がブチギレて女帝を当てつけのようにやってしまったので女帝の呪縛からは逃れ、江戸時代には緊急時に女帝という選択肢ができました。

 

近衛天皇の体調が思わしくなく、近衛天皇が後継者を得ることのないまま死去するであろうことは周囲には織り込み済みだったと思われます。近衛の生母である美福門院は万が一に備えて重仁親王守仁親王を猶子としていました。どちらに転んでも大丈夫なように処置していたのです。

 

しかし結果的には守仁親王への皇位継承を前提にワンポイントとして雅仁親王が即位することになりました。これは藤原忠通が強く主張したようです。忠通としては雅仁親王後白河天皇に恩をうまく売りつけたことになります。

 

これに崇徳がブチギレてまた崇徳と藤原頼長という忠通への不満分子がくっついて保元の乱を起こしたかのように描かれていますが、これは『保元物語』に基づくもので、現在では違った見方が主流です。

 

ここでは以下、『保元物語』的な保元の乱の動きを見ておきます。

 

近衛の死後の皇位継承争いからはぐれた崇徳ですが、崇徳は実は生母の待賢門院が鳥羽の祖父の白河法皇との間にできた不義の子である、という見方が強くあります。これは現在ではどちらかと言えば否定的に考えることが多いのですが、実際にはわからない、としか言いようがありません。ただその噂が出てきたタイミングやその話の中身、待賢門院のそのころの行状などを見るとその説は信憑性が薄いのではないか、と見られています。

 

しかも崇徳と頼長もそれほど親しい関係ではありません。どちらかと言えば忠通サイドの挑発の中でこの両者が結び付けられていった、というのが真相でしょう。

 

それはともかく、頼長と崇徳は白河殿に立てこもって反乱を起こします。ここに保元の乱の幕が切って落とされました。

 

後白河天皇方は平清盛三百人、源義朝二百人、源義康百人の兵力をかかえ、圧倒的に有利な立場にありました。一方崇徳上皇方が集めたのは源為義平忠正ら少数で、為義の子供達が主力でした。中でも鎮西八郎という仮名を持つ源為朝は弓の強さと豪勇無双なことで知られており、非常に頼りにされていました。

 

為朝は頼長に進言します。「兄は夜襲を考えているでしょう。私に夜襲の許可をください。私の弓矢で義朝などは一発で潰せます。天皇が脱出する時に弓矢を射れば駕籠かきどもは一目散に逃げましょう。そうすれば天皇をとらえ、我が君を天皇ぬつけることもできます。」。すると頼長は「天皇様と上皇様が天下を争うのだ。夜襲のようなせこい真似はできない。明日になれば興福寺の僧兵がくるからそれを待って正々堂々と戦おう。公家どもは招集をかけてある。こないやつを数名斬首すれば恐れおののいて帰参するだろう」と却下し、為朝は「それでは義朝は夜襲を仕掛けてくるだろう」とぼやきました。

 

そのころ後白河のもとでは源義朝が夜襲を提案し、受け入れるところとなっていました。軍勢は白河殿目指して二条通りを東に向かいます。上皇側の偵察部隊がそれを見つけて報告した時には手遅れで為朝は「俺のいっていたのはこのことだ、このことだ」と叫び、直ちに守りにつき弓矢で蹴散らします。

 

攻めあぐねた義朝は火攻めの許可を得て放火します。進退窮まった上皇方は逃げ惑い、頼長は逃げる途中で首に矢を受け、数日後に死にます。為義らは義朝に降伏しますが処刑されます。崇徳上皇讃岐国に流され、乱は終結します。

 

義朝は左馬頭になりますが、播磨守に出世した平清盛を妬み、平治の乱の伏線となります。

 

というのが『保元物語』のあらすじですが、かなりの脚色が加えられています。当事者の聞き取りを経て作られた『愚管抄』では乱のきっかけもこのような単純な話ではなく、夜襲を進言するのも為朝ではなく為義で、あまりにも小勢のために対抗できないので為義らが夜襲をかけている間に宇治に逃げる、という案でした。これでは頼長には飲めないのは道理で、もしその案を受け入れていたらそれは忠通の読み通りだったでしょう。

 

また天皇方の夜襲についても明け方に進発したのは朝駆けの夜襲をかけたわけではなく、単に忠通が逡巡していただけなのですが、その辺は『保元物語』では描かれていません。忠通はなぜ逡巡していたのでしょうか。これは為義の提案を頼長が一蹴したことと関係があります。

 

この辺についてはまた述べます。

 

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