室町将軍家御教書(『朽木家古文書』62 国立公文書館)
『朽木家古文書』62です。
とりあえず写真を。
釈文
若州發向事不日可被
致忠節之由所被仰下也
仍執達如件
嘉吉元年十一月三日 右京大夫(花押)
佐々木朽木満若殿
一行目の一番下の「被」と二行目下から四字目の「被」ですが、後者の方がよく見るくずしです。個人的には「被」と「致」は意外と似ている気がするのですがいかがでしょう。
読み下しです。
若州発向の事、不日忠節を致さるべきの由、仰せ下さるるところなり。よって執達件の如し。
嘉吉元年十一月三日 右京大夫(花押)
佐々木朽木満若殿
差出人は管領細川持之です。宛先は朽木貞高です。嘉吉元年は足利義教が弑殺された嘉吉の乱の時です。
嘉吉の乱で弑殺された義教の後継は当時八歳、当然幕政は管領の細川持之が担うことになります。この文書は一応室町将軍家の意を持之が奉じて執達する形式となっていますが、持之が幕府の代表者ということになります。
文中の「若州発向」というのは嘉吉の乱に乗じて一色氏が蜂起し、若狭国を奪おうとしているので若狭国に近い朽木氏に軍勢の派遣が求められたものです。
若狭国はもともとは一色氏が守護職を保持してきました。しかし丹後・三河・若狭の三ヶ国の守護を兼帯していた宿老の一色義貫が足利義教の命を受けた武田信栄に暗殺されます。信栄はその功績によって若狭守護職を獲得し、一色氏は義貫の甥の教親が継承し、丹後一ヶ国を与えられます。
しかし若狭には国際交易港の小浜を抱えています。この小浜の権益をめぐって一色氏と武田氏は争うことになります。寛正年間には十三丸という船をめぐって両者の関係者が争っています。
小浜が禁裏御料だったことについてはここで述べています。
十三丸についてはいずれ述べたいと思います。