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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

藤原頼長という人物

藤原頼長。この人ほど個性的な人物はいるだろうか、というほどの人物です。この人の個性の前には全て霞んでしまうほどの個性です。

 

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藤原頼長 『天子摂関御影』

彼は藤原忠実の次男で兄の忠通よりも24歳年少でした。彼については故棚橋光男氏の『後白河法皇』に詳しいです。

 


後白河法皇 (講談社学術文庫)

 

 これは氏の遺稿集ともいうべきもので、1995年に講談社メチエから出版されました。頼長について触れられたのは『講座前近代の天皇 第1巻』に載せられた「後白河論序説」の第1節「悪左府頼長」です。ここで棚橋氏は五味文彦氏をかなり厳しく批判しています。

 

それはともかく、ここで描き出される頼長像は強烈です。棚橋氏がかなり頼長にシンパシーを感じていたのではないか、となんとなく思います。根拠はありません。棚橋氏とは残念ながら面識はありませんでした。

 

ざっくり彼の全体像をまとめますと、「日本一の大学生(だいかくしょう=学者)」と呼ばれた知識人ですが、棚橋氏によれば、それは従来の訓詁注釈ではなく自ら理を窮め、その体系化に特徴があった、とのことです。そしてそれは朱子学の地平に限りなく接近していた、と。そして彼が歴史の闇に消えた時、日本は大きな可能性を自ら葬った、と。

 

しかし一方で彼の滅亡は彼自身の破天荒な生き方の当然の帰結でもありました。窮めて厳格な、あまりにも厳格な規範意識は時に下手人の暗殺や対立した人物の関係者の腕の切断という私刑の行使も問わないいびつな「正義感」として発露しました。

 

またその規範意識摂関家としてのプライドは、当時急速に力をましていた院近臣層に向けられ、特に諸大夫層出身の美福門院のことを露骨に軽んじ、その兄の藤原家成の屋敷を破却したことは美福門院のみならず近衛天皇鳥羽法皇の感情を損ね、彼のその後の人生に大きく陰を落とすことになります。

 

頼長の人気を不滅のものにしているのは男色を赤裸々に描き出した『台記』です。男色はノーマルでしたので、それをことさらに書く人はいなかったのです。当時の日記は子孫への規範であり、記録でした。その記録にいちいち「誰とヤッた。ものすごく気持ちよかった」と書く権力者はいないでしょう。頼長を除いては。

 

頼長は異常者だったのでしょうか。私はそうは思いません。彼は彼なりに真面目な人です。彼は男色を通じたネットワークは大事だ、ということを子孫に残したかったのでしょう。「何回射精した」とか「よかった」とか「押し倒されたのは初めてで、最初はムカついたけど意外によかった」とか、子孫にとってはおそらくどうでもいい話なのですが、彼にとってはそこが伝えたいところなのでしょう。少しずれている、という感じなのだと思います。

 

殺人犯を諸事情で釈放した時、その殺人犯は突如襲撃され暗殺されました。その出来事を書いた頼長は「殺された被害者は国家の忠臣であった。その殺人犯が殺されたのは天罰だ。誰が殺させたかはわからない」と書いてその割注に「実は私が秦公春に殺らせたのだ」と書いています。これを書くと意味がないような気がする、というか、書くんだったら最初から書けばいい話で、もったいぶって「不吉な雲が流れていた」というおどろおどろしい書き出しから「誰が殺させたかわからない」と書かなければいいのに、と思います。

 

棚橋氏は「内乱前夜、〈存在の不安〉と隣り合わせた魂のおののきーこう頼長の異常性を説明したら、あまりにも現代的解釈に過ぎようか」としています。私は一瞬「結果論的解釈」という言葉が浮かびましたが、それは多分私の認識が甘いのです。

 

当時が「内乱前夜」であるのは現在の我々から見れば自明ですが、歴史家は後世の目から見た結果論的解釈ではない当時の見通しを提示しなければならない、と考えています。そう考えるならば、鳥羽院政期というのは表面的には平穏に進行しているように見えますが、天皇家にも摂関家にも軋みが見え始め、社会の矛盾が露呈した頃ではないでしょうか、院の豪壮な生活を支えていたのが院近臣が受領として収奪してきた地方の富で、それが限界に近づきつつあることを鋭い人は感づいていたかもしれません。頼長が実際にカタストロフィーを覗き込んでいたかどうかは定かではありません。

 

ただ彼が若い頃、藤原通憲に師事していた事実、通憲が出家する時に手を取って泣いた事実などから、この師弟はカタストロフィーを見据えていたのかもしれません。保元の乱を勝ち抜いた通憲こと信西は保元新制を実施しています。

 

皮肉なことにこの師弟は保元の乱で激突し、乱後には師匠は弟子の墓を暴き、その死体を検めています。