三別抄に対して日本はどう対応したか、調べてみた!
8月1日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座の予告エントリです。
8月は「元寇」とか「蒙古襲来」とか言われるモンゴル戦争についてやっていきます。
第一回は文永の役以前です。
文永の役以前の大きな出来事としてはクビライの国書と、三別抄です。
というわけで三別抄について調べてみました。三別抄とはどんな人?日本への影響は?日本側の対応は?調べてみましたのでご覧ください。
それではどうぞ。
まず三別抄です。
「別抄」(ピョルチョ)というのは高麗の軍制です。当時高麗は武人政権で、いわば鎌倉幕府や平氏政権のような武人による政権が成立していました。鎌倉幕府との最大の違いは、鎌倉幕府が領主制を確立し、朝廷からかなり自立していたのに対し、高麗武人政権は王朝とがっつりくっついていた点である、と言われています。一方で王朝を傀儡化しながら、王朝に権威の由来を求めているところが特徴で、ということを言い出したら室町幕府などどうなるのでしょうか、と室町幕府と朝廷の関係を研究しているといろいろ考えてしまうところがあります。
その武人政権の軍制の別抄の中でも夜別抄二部隊と神義軍の三部隊が武人政権の最精鋭部隊で、彼らを三別抄と呼んでいました。
モンゴルによる高麗への侵攻が進んでいた時、高麗を支配していた武人政権を、そのトップの名前から崔氏政権といいます。崔氏政権はモンゴルの侵攻に徹底的に抵抗し、やがてモンゴルとの融和に傾く王朝と対立し、最後は王朝に滅ぼされてしまいます。日本より七十年早く武人政権が王朝政権に打倒されたのです。
モンゴルの帝室と一体化していく高麗の王朝に対し、一旦は武人政権打倒に動いた三別抄がモンゴルおよびモンゴルと一体化した王朝に対し反旗を翻します。これが三別抄の乱です。近年は高校の授業でも取り上げられるので、ご存知の方も多いでしょう。
この三別抄の研究の古典的な位置を占めるのが旗田巍氏の『元寇』(中公新書)です。
【中古】元寇 蒙古帝国の内部事情 /中央公論新社/旗田巍 (新書)
この三別抄が日本に遣使していたことを明らかにしたのが石井正敏氏です。石井氏は「高麗牒状不審条々」という史料を分析し、三別抄が日本に救援を求めるとともに日本と連帯しようとしていたことを明らかにしました。
村井章介氏によると、その三別抄の呼びかけに対し、当時の朝廷には外交文書を正確に読みこなし、外交を行うことができなかった、ということです。三別抄からの呼びかけに対応するために開かれた会議では儒者の漢文を読みこなす能力を競う場になっている、ということです。
私はその見解に対して疑問があります。
村井氏をはじめ先行研究が元にしてきたのは『吉続記』ですが、そこの文永八年九月五日条に東坊城長成が「停滞なくこれを読み申す」としているところです。一方日野資宣は九月三日に同じ文書を読み、「日ごろ稽古の名誉なし」と酷評されています。これを捉えて漢文の読みを競う場でしかなかった、と評価しているのですが、この翌日の部分を読めば何が問題となっているのかがわかります。
結論から言えば「貼」という漢字では意味が通らなかったのです。資宣は「貼」と呼んだために意味が通りませんでした。一方長成は「目」に「占」という漢字として文意を把握したのです。「目」に「占」という漢字は「テム」と読みますが、意味は「うかがう」ということであり、モンゴルが日本を侵略しようと「うかがっている」ことを三別抄が知らせてきた、ということになります。「字面の解釈に終始」と評価されますが、非常に重要な「字面の解釈」だったわけです。
朝廷が三別抄の要請を黙殺したのは、意味がわからなかったとか、東アジア情勢を理解できなかったとか、そういう理由ではなく、三別抄の使者が来た段階では朝廷なりに外交方針を決めていたからです。朝廷は近衛基平の死後に方針を変えて高麗の現王朝と友好関係を結び、モンゴルとの交渉も視野に入れた姿勢を取ることを決定していました。そのような時期に高麗王朝およびモンゴルに抵抗する三別抄と関係を持つはずがありません。
この辺の事情については今から七年前に論文にしております。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/hatano.pdf
いかがでしたでしょうか。
日本だけでなく高麗にも幕府のような武人の政権があったなんてびっくりですね(棒)
さらに高麗の中でもモンゴルと組んでいたり、逆に日本と連帯しようとしていたり、やはり一面的に見るのは間違えている、ということも改めて思いました。物事を単純化して見るといろいろ問題が出てきますね。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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