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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

弘安の役の神風

弘安の役と言えば「神風」こと台風でモンゴル軍が撤退したことはほぼ疑う余地はないとされてきました。もう少し詳しく説明すると、まず東路軍が博多湾に侵攻、志賀島を占拠しますが、博多湾がいわゆる「元寇防塁」によって要塞化されていたために攻撃に手間取り、遅れて到着した江南軍と鷹島で集結し、いよいよ総攻撃を開始しようとした時に「神風」こと台風がやってきてほぼ壊滅した、と考えられてきました。

 

これは戦前の池内宏以来の通説です。ポイントは博多湾に襲来したモンゴル軍が志賀島を占拠しながらも博多湾を要塞化したことによって攻めあぐね、一旦鷹島に退いたところです。

 

服部英雄氏はその見方に疑問を呈します。志賀島という拠点をなぜ放棄して鷹島に戻る必要があるのか、鷹島で全滅したのならばなぜ竹崎季長らは鷹島から遠く離れた博多湾に待機し、そこから鷹島に向かって戦うのか。服部氏は台風で決着がついたのではなく、その後も志賀島鷹島で戦闘が繰り広げられ、海上合戦で敗北して帰国したものと考えています。

 


蒙古襲来と神風 - 中世の対外戦争の真実 (中公新書)

 

 例えば従来の説では高麗を出発してから19日もかかって対馬に到着しています。しかし当時、高麗から対馬までは1日で来ます。何をしていたのか、なぜそんなにかかったのか。それについて服部氏は鮮やかに論証してみせます。ぜひこの本を読んでみてください。

 

服部氏の描き出す弘安の役を時系列に並べてみます。

 

5月26日、東路軍(高麗軍)は志賀島に上陸し、そこに橋頭堡を築くことに成功します。

 

6月上旬、日本側は志賀島奪還のための攻撃を仕掛けますが、志賀島能古島の奪還は失敗します。

 

そのころ長門国にもモンゴルが来週します。

 

東路軍は志賀島を占拠し、日本軍の反撃を退けたものの、九州本土への上陸に失敗し、日本側は志賀島への補給路となっている壱岐を攻撃目標とします。

 

その最中、江南軍(旧南宋軍)が中国大陸を出発し7月始めに平戸、同15日に鷹島に到着し、いよいよ日本への総攻撃が開始されようとしていました。

 

ここで池内説(通説)と服部説の違いをみますと、池内説では鷹島に7月27日に到着、志賀島にいた東路軍が一斉に鷹島に移動したことになっていますが、服部説では27日には東路軍から連絡部隊が鷹島についた、となっています。

 

さらに池内説では閏7月1日に鷹島を直撃した台風で東路軍・江南軍ともに壊滅した、となっていますが、服部説では閏7月1日に東路軍は志賀島で、江南軍は鷹島で、それぞれ台風に遭遇し、東路軍は5日に博多湾で敗北し退却、江南軍は7月7日に鷹島で敗北して退却しています。

 

あくまでも私の印象に過ぎないのですが、今まで腑に落ちなかった点が服部説によってすっきりしました。長門への来襲とか、博多湾から鷹島って遠過ぎない?とか、幕府御家人って弱すぎない?とか。

 

結局『八幡愚童訓』という史料がベースにあったんだな、と。『竹崎季長絵詞』をもっと中心にすえてみていけばよかったんだ、とかいろいろ考えるところがありました。