北条義時下文(『朽木家古文書』116 国立公文書館)
九月に入りましたのでそろそろ平常運転に戻そうと思います。
古文書入門カテゴリー「朽木家古文書」です。
これは『史料纂集 朽木文書』では115になっています。
早速釈文から。
事、可為河内前司入道之御
沙汰之状如件
承久三年八月廿五日
陸奥守平(花押)
読み下し。
この文書をみているといろいろ疑問点が出てきます。なぜ朽木氏が播磨国の荘園の文書を持っているのか、とか、河内前司入道って誰やねん、とか。
まずここに出てくる「河内前司入道」についてです。
彼は俗名を平保業といい、池大納言平頼盛の五男です。
頼盛といえば平清盛の異母弟で、母は有名な池禅尼です。池禅尼は俗名を藤原宗子といい、藤原隆家の四世孫です。彼女は院近臣の出身で同じ院近臣であった伊勢平氏平忠盛に嫁ぎ、家盛と頼盛を生んでいます。しかし伊勢平氏は正室所生の家盛や頼盛ではなく庶出の長男清盛が継ぎ、伊勢平氏は忠盛の死後の保元の乱に分裂の危機を迎えます。しかし池禅尼は自らが乳母を務めた重仁親王(崇徳皇子)ではなく後白河天皇方に付くことを明らかにし、伊勢平氏の危機を回避しました。
平治の乱では乱に参加して逃亡し、捕縛された源義朝の嫡男の源頼朝の命乞いをしたことで有名ですが、おそらくは頼朝がかつて仕えていた上西門院からの助命嘆願を取り次いだのではないか、とみられています。
また彼女の弟の藤原宗親は頼盛から駿河国大岡牧の管理を任されていた舎人允宗親と同一人物という杉橋隆夫氏の説もあり、宗親の妹もしくは娘の牧の方が北条時政に嫁いでいるところを見ると頼朝がなぜ北条氏の監視下に入ったか、というのも一本の線で繋がります。少なくとも牧の方が単なる土豪の娘ではなく京都の貴族につながる家系であることは杉橋氏の研究によって明らかになっています。
頼盛はしばしば清盛と対立し、清盛死後の平家都落ちでは都に放置されたらしく、後白河法皇の庇護下に置かれ八条院に匿われたのち鎌倉に向かって頼朝の保護下に入り、頼朝から本領安堵と本官還任の厚遇を受けます。
頼盛の五男の保業は河内守に任官し、頼朝の御家人となります。承久三年段階では出家し、承久の乱後に播磨国在田荘預所職を任されます。この文書はそのことを示すものです。
この後池氏は光度・為度・維度・顕盛と続きますが、顕盛の所領は猶子となった朽木経氏の手に渡ります。朽木家古文書に播磨国の文書があるのはそういう事情です。