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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

三浦の乱ー三浦の形成と乱の発生

引き続き三浦の乱について見ていきます。

 

三浦が形成されたのは15世紀初頭に倭寇対策として興利倭(倭寇が商人に転身した者)の入港先を釜山浦と薺浦に限定し、使送倭(使節として来朝する者)も同様とします。1426年には塩浦が追加され、三浦が形成されます。

 

基本的には三浦は定住を想定していない交易拠点でした。しかし実際には交易従事者の一時的な滞在のみならず、そこに定住する恒居倭が増加していきます。彼らは朝鮮に帰化せず、あくまでも対馬支配下にいる点で受職倭人とは区別されます。

 

恒居倭人の増加は朝鮮サイドからすれば朝鮮の法に従わない人々の増加であり、しかも朝鮮サイドは強硬な姿勢で臨めば彼らが倭寇化するリスクもあり、簡単には手が出せません。日本人有力者による自治が行われ、朝鮮サイドの徴税権や司法警察権(検断権)は及びません。

 

1436年、三浦の倭人対馬関係者に限定され、それまで送還に協力的だった宗氏が消極的な態度に変わります。それ以降人口は増え始め、200人ほどだった人口が30年後には3000人を超えるようになりました。

 

人口が増えると、周辺との軋轢も問題となります。恒居倭人による漁場の占拠という問題はまだ可愛い方で、朝鮮にとって無視できないのは、恒居倭と癒着する朝鮮人が出てきたことです。密貿易が活発化し、朝鮮の通交管理が空洞化します。また三浦周辺の朝鮮人は三浦の倭人と結託していわばふるさと納税的な形で朝鮮への租税を回避します。さらには朝鮮の水賊が恒居倭と結託して倭寇化する事例も報告され、水賊の活動が活発化します。

 

このような事態は本来は対馬側にとっても不本意であるため、朝鮮当局と対馬サイドは協力しながら朝鮮の検断権を行使できるようにして海賊行為を働いた倭人を処刑するという強硬姿勢を見せ始めます。

 

そのような中済州島の貢馬運搬船襲撃事件が起こり、その主犯が三浦関係者と断定され、三浦の倭人に対する視線が厳しくなります。

 

そのような中、1510年、釣りに向かう恒居倭人倭寇と誤認して処刑する事件が起き、それへの抗議のために三浦の倭人が蜂起し三浦の乱が勃発します。

 

この事件に対馬側は宗盛親を大将とする援軍を派遣し4500人の軍勢で三浦を管理していた朝鮮の武将を襲撃し、釜山浦では李会友を討ち取り、薺浦では金世鈞を生け捕りにしました。単に恒居倭の蜂起ではなく、対馬から軍勢が入ってきた大規模な軍事侵攻でした。

 

盛親の率いる軍はさらに周辺の城の攻撃に取り掛かりますが、反撃に遭い、撤退を余儀なくされます。

 

この乱の影響は大きく、対馬は朝鮮とのパイプを失い、大きな危機に直面します。ここから対馬はどうやって朝鮮との関係を立て直していくのか、それは講座でお話しすることになろうかと思います。

 

結果として三浦の乱で崩壊した日朝関係の立て直しの両国の努力は営々と続けられ、それが近世における「善隣友好」の日朝関係につながっていくのです。もっともこの時代の日朝関係を「善隣友好」の一面のみで見ていくのも問題ではあります。