拙著『乱世の天皇』見どころ2ー嘉吉の乱
考えてみれば今日、6月24日は嘉吉の乱の日でした。というわけで慌ててアップします。
嘉吉の乱をざっくり説明しておくと、六代将軍足利義教が播磨・美作・備前守護職であった赤松満祐に暗殺された事件です。
足利義教が次々と守護大名を滅ぼしていく中で「次は赤松が討たれるだろう」という噂に怯えた赤松満祐が先手を打って義教を暗殺した事件です。貞成親王が義教による赤松滅亡の陰謀を証言しているので、それに対するカウンターと見られがちですが、私は実はあまり『看聞日記』に書いてあることを信用していません。一次史料中の一次史料ですが、かなり慎重な史料批判が必要だと思っています。
その辺のカラクリについては実は拙著のバックボーンにもなっています。というか、『満済准后日記』、軽く見られすぎだと思います。義教の就位の経緯もなぜか『建内記』が正しく、『満済准后日記』は嘘吐きと決めつけられることもあります。確かに満済は腹黒そうに見えますし、少なくとも隙のない人物だとは思いますが、東寺百合文書などに出てくる満済の人物像を見ると、意外に裏表のない人、という気もしています。
嘉吉の乱の時には満済はとっくにこの世を去っていますので『看聞日記』および『建内記』が中心となります。
面白いのが『朝鮮王朝実録』と『海東諸国紀』です。『看聞日記』にディテールがそっくりなんですね。馬が乱入してその騒ぎに乗じて赤松が義教を殺したところや、義教が赤松を殺そうとしてそのカウンターとして義教が殺された、とか。ただ『朝鮮王朝実録』では赤松を滅ぼそうとしていたのは義教と大内持世の二人になっています。大内持世を含めた大内家歴代は朝鮮王朝からの信頼が極めて厚かったことで知られており、大内持世ルートで情報が入っていたことを示唆しますが、案外貞成親王も大内家から情報を入手したのかもしれません。この辺は拙著では触れていません。『嘉吉の乱』についての一般書を書く機会に恵まれた時にこの辺は詳しく書くことにしましょう。その前に論文を書け、という話ですが。
嘉吉の乱と後花園天皇といえば綸旨ですが、朝廷の中での慎重論など、いろいろ面白い動きもありますのでこの辺はぜひ7月後半の拙著の刊行をお待ちください。
そしてこの嘉吉の乱後幕府は急速に衰えていきます。その過程についても叙述しています。ただ「義教死んだ→管領の細川持之無能→幕府弱った」という単純な問題ではなさそうです。
一つは嘉吉の徳政一揆です。そして畠山氏の台頭と内紛です。そしてそれらによる幕府財政の崩壊というのが大きいと私は考えています。
幕府の権威が失墜し、朝廷の権威が相対的に上昇した、という見方がありますが、後花園天皇の嘉吉の乱後の位置付けは単に朝廷という形では評価しきれません。その辺も拙著をご覧ください。