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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

拙著『乱世の天皇』見どころ7ー読み仮名の苦労

これは「見どころ」というか、苦しむところなのですが、読み仮名の苦労です。

 

読み方が定まっている名前は簡単です。「足利義政」というのはそれなりに歴史に関心のある方であれば読み仮名は不要でしょう。しかしもちろん拙著を手に取られ、読んでいただく方の中には私と関係があるから仕方なく読む(例えば知り合いで手渡された(押し付けられた)のでとりあえず読んでみるか、というノリ)場合、「足利義政」を「あしかがよしまさ」と読めないことも十分考えられます。したがってこういうのもしっかりとつけます。

 

後花園天皇の父の貞成親王を「さだふさしんのう」と読める人はかなり室町時代の皇族に関心のある人でしょう。こういうのはしっかりと読み仮名をつける必要があります。おそらく拙著をわざわざ手にしてくださる方の多くは室町時代の皇族に関心のある方っでしょうから、読める可能性が高いです。しかし書籍として書店にも並んでいる状況であれば、「貞成親王」を読めない人々にこそ手に取っていただいて、読んでいただくことが必要です。拙著には私の推しの「後花園天皇」を一人でも多くの人々に知っていただきたい、という目的があるからです。

 

斯波義将」はどうでしょう。「しばよしまさ」と読まれることも多いですが、最近では「しばよしゆき」と読まれることの方が多いです。「金沢貞将」も「かねざわさだゆき」「かねさわさだゆき」が多数派となっています。ここは濁るか濁らないのか悩みますが、当時は「かねさわとの」というように濁点をつけないのでどちらかわかりません。拙著では私の好みで「かねさわ」と濁点をつけませんでした。

 

実は「斯波義将」は「しわよしゆき」と読む可能性もあり、現に桃崎有一郎氏の『室町の覇者 足利義満』(ちくま新書)では「しわよしゆき」と読んでいました。こういう場合、かなり桃崎氏の読みが正しいという気もするのですが、「しわよしゆき」を採用すると桃崎氏の本べったりになるのもなんだかな、という意味不明の理由で今回は「しばよしゆき」を採用しました。

 

「勧修寺」をどう読むか、というのも難しい問題です。貴族の家名の場合と寺院を指す場合があり、寺院の場合は「かじゅうじ」にしていますが、人名の「勧修寺経成」は「かんじゅじつねなり」を採用しました。これは貞成親王が「くわんしゅし」と書いていた(どこかは今見つかりません。見つかれば追記します)ので、貞成親王自身の表記に従いました。これも「かんしゅじ」と桃崎氏は読んでいて、従おうかな、と思いましたが、なんとなく見送りました。

 

花山院持忠」も「かざんいん」と読み仮名をつけるのが多いですが、桃崎氏は「かさのい」としていて、これも以下同文でした。これについては春日大社宮司の花山院弘匡氏が「かさんのいん」と読まれていることに従いました。この辺勧修寺家とは方針がブレブレですが、貞成親王自身の読みを尊重した結果、とご容赦を。

 

後小松天皇第二皇子の「小川宮」はかなり迷いました。「おがわのみや」が多いのですが「こかわのみや」と読んでいるケースもあり、私もなんとなく「こかわのみや」と読んできたのでそれを踏襲しました。その背景は小川宮の名前の由来となった小川亭は現在の「小川通」(おがわどおり)ですが、この由来が「小川」(こかわ・こがわ)が流れていたことに由来しますので、室町時代には「小川亭」(こかわてい)だったと考えられるからです。

 

『看聞日記』応永31年(1424)五月六日条に「土岐与安」が甘露寺兼長の息女の仙洞伺候女房の大納言典侍と密通した、という記事があります。石原比伊呂氏の『北朝天皇』(中公文庫)では「ときよあん」と読んでいますが、拙著では「よやす」と読みました。「与安」さんは伊勢守護であり、土岐氏の惣領とあります。伊勢守護といえば当時は「世保持頼」(よやすもちより)が任ぜられており、応永31年に解任されていますので、これは「ときよあん」ではなく「ときよやす」と読むべきだと考えます。拙著では「世保持頼」と表記しています。『看聞日記』では当て字が多いですから、これもその類だろう、と「与安」表記についてはオミットしています。

世保持頼は後花園天皇践祚のころに伊勢守護に返り咲きます。しかし永享12年に大和国に在陣中に義教の命によって討伐されてしまいました。

 

一番悩んだのは女性の名前です。読みもあいまいなので一番よく目にするものを選びました。通陽門院「厳子」は「いつこ」か「たかこ」か最後まで悩み、適当に「たかこ」を洗濯選択しています。ずっと「げんし」と読んできたもので。

 

他には敷政門院「幸子」も悩みます。「さちこ」か「ゆきこ」か。これは当時の人名には「ゆき」と読むケースが多いことから「ゆきこ」を採用しました。ちなみに私自身はずっと何の根拠もなく「さちこ」と読んでいましたが。

 

こういう場合音読みで読めば問題は回避できます。「げんし」「こうし」。そういえば大宮院「佶子」(後嵯峨院中宮)も「きつし」と読んでおけば問題ありません。後京極院「嬉子」(後醍醐天皇中宮)も「きし」で大丈夫です。

 

当初はそれでふりがなをつけていったのですが日野「富子」ではた、と止まりました。これを「ひのふし」とふりがなをつけるのか?と。これはさすがに「とみこ」とすべきでしょう。としたら「きし」と「とみこ」の整合性をどうするのか。

 

そこで急遽「富子」(とみこ)に合わせて訓読みに変更する作業開始です。

 

一番の問題は「嬉子」です。ウィキペディア先生は「さちこ」の読みを採用しています。しかしそれについての出典は「推測」とあるので、独自研究の可能性もあります。これを無批判に採用すると『ウィキの天皇』と揶揄されても仕方がありません。ウィキペディアの安直な利用は受講生にも戒めています。私は「使ってもいいが、かならず他の文献などでロンダリングしなさい」という立場です。

結局「よしこ」を採用しました。ずっとそう書かれた書物を読んでいて一番慣れていたからです。これが正しいのかどうかは自分でも自信はありません。

ちなみに「佶子」は「きつこ」とブロガーかツイッタラーにいそうな名前になりました。

 

第八章では同じ室町天皇論の書物との差異化をつけるために「後花園天皇の時代の海域アジア」という章をつけました。ここでも読み仮名は苦労します。問題は朝鮮王朝の名前です。

現在韓国と中国のように漢字表記をどのようにするのか、というのは「相互主義」を採用しています。拙著でも相互主義の原則に従いました。つまり朝鮮王朝の読み仮名は韓国語読みを採用し、明王朝については「明」(ミン)を除いては日本語読みを採用しています。

この理由は「相互主義だから」という理由よりは、単純に私がその方が慣れているからです。慣れている理由が相互主義だから、ということなので、最終的には相互主義だから、ということにはなりますが。

 

「世宗」を「せいそう」と読むことにはどうしても慣れなかったのです。しかし「世宗」を(セジョン)と読むと、今度は「議政府領議政」を「ぎせいふりょうぎせい」と読んだら格好がつきません。苦労して「ウイジョンプヨンイジョン」とふりがなをつけました。はっきりいって少し後悔しました。

 

ちなみに『乱世の天皇』を私はずっと「らんせのてんのう」と読んできましたが、奥付を見たときに「らんせいのてんのう」とあって、実際に辞書を見ると「らんせい」が正しいことを知って衝撃を受けています。

 


室町の覇者 足利義満 (ちくま新書)

 


北朝の天皇-「室町幕府に翻弄された皇統」の実像 (中公新書 2601)

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで