足利義教の評伝の構想
言わずと知れた室町幕府六代将軍です。足利義満の子として生まれ、青蓮院門跡から延暦寺の天台座主を務めた高僧です。兄の足利義持の死去に伴い、くじ引きで将軍に選出され、将軍権力を強化しようと奔走しますが、最期は重臣の赤松満祐に暗殺されます。
ちなみに足利義教については以下のエントリで大雑把な話をしています。
また拙著でも重要な位置付けを占めています。
足利義教は一時多くの本が出されていました。
今谷明氏の『土民嗷々』(創元ライブラリ)をはじめ、森茂暁氏の『室町幕府の崩壊』(角川ソフィア文庫)は明らかに足利義教を主人公としています。それ以外には森茂暁氏の『満済』(ミネルヴァ日本評伝選)も足利義教にかなり触れています。
しかしこれらはあくまでも室町時代の政治過程を叙述するために義教を取り上げただけで、義教の生涯そのものを述べたものではありません。例えば義教の前半生は完全にオミットされます。
もっとも後花園天皇と違い、義教の場合、前半生はほぼ不明です。しかし当時の日記に「青蓮院門跡天台座主大僧正義円准后」は時に現れます。意外な義教の一面が現れています。
義教といえば「独裁」「暗殺」「粛清」というイメージが出てきます。その点については類書はしっかりと書かれています。その中でも公家に対する弾圧は実は群を抜いている、と思います。守護大名の粛清が目につきますし、また庶民に対しても過酷な話が出てきます。しかしよく見ると庶民に対する弾圧の事例は散発的で、義教の命令に反したものに対して行われている、という面があり、彼が特に苛政を敷いていたわけではありません。
公家に対する過酷な処分というのは、私の見るところ、皇統の問題があるように思えます。その点に踏み込んで彼の公家政策を見直すべきでしょう。
義教の人生は政治の側面だけではありません。義教に関する書籍はあくまでも室町時代の政治史を叙述するためのキャラとして義教を扱っています。義教が優れた文化のプロデューサーであり、彼自身和歌の数寄と言われるほど和歌に堪能であったこと、連歌にも堪能であったことなどについても掘り下げる必要があるかと思います。
後花園が学問をはじめとする諸芸に通じていたのは、義教のプロデュースがあったことを忘れてはなりません。
私は拙著で後花園天皇を「天皇存続のキーパーソン」と記しました。後花園天皇を「近来の聖主」に育て上げたのは足利義教です。義教なければ天皇の地位がどうなっていたか、予断を許しません。特に天皇が後継者なく崩御し、皇位に関して様々な思惑が交錯した中、すでに定められていたとはいえ、各方面からの抵抗も大きかった、伏見宮家からの天皇擁立をスムーズに成し遂げた功績はもっと評価されてもいいでしょう。
さらにいえば義教の文化・芸能への関与がなければ、東山文化もなく、ひいては日本文化も今日の姿とは違ったものになっていたかもしれません。
義教の文化への関わりも義教の評伝には落とせません。
また拙著では第八章に「後花園天皇の時代の海域アジア」という章をつけましたが、義教の評伝では海域アジアとの関わりは落とせません。特に申淑舟の『海東諸国紀』の中の「日本国紀」(!)には義教の最期が丁寧に書いてあります。義教の最期は朝鮮王朝にとっては極めて大きな衝撃であったことが伺えます。まあ衝撃を受けた原因は大内持世が遭難したことにありますが。
足利義教の評伝執筆のための準備を始めていきたいと思います。ただ現在のところ出版元は民明書房の予定ですが。
満済:天下の義者、公方ことに御周章 (ミネルヴァ日本評伝選)