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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々ー満済

久しぶりの「後花園天皇をめぐる人々」シリーズです。

 

今回は醍醐寺三宝院門跡満済准后を取り上げます。長い長い名前ですが、実際の名前は「満済」です。

 

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満済 醍醐寺三宝院蔵

 

彼は醍醐寺三宝院門跡という地位につき、准后という称号を得ていました。「准后」とは「三后」(皇后・皇太后太皇太后)に準ずる待遇のことで、有名なところでは北畠親房が正平の一統のご褒美で後村上天皇から拝領したことがありますが、多くは摂関の人々に与えられていました。室町時代に入ると顕密の高僧にも与えられるようになります。満済准后の他には義円准后が有名です。義円准后の場合は足利義満の息子で、青蓮院門跡天台座主を務めたことで知られる高僧で、のちに室町幕府6代将軍の足利義教になります。

 

満済二条家の庶流今小路家に生まれました。

 

満済醍醐寺については過去にユーチューブで話しています。少し長くなりますが、時間があればご覧ください。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

今小路基冬の子であることが判明しています。今小路基冬は権大納言まで昇進しましたから、一応上流貴族の出身です。しかし彼は護持僧の中では圧倒的に家柄が低かったのも事実です。だいたい室町殿護持僧は摂関家か足利家が中心で、時には皇族も列します。そのような中で、一応摂関家の流れを引くものの、極官が権大納言という家柄は満済一人です。

 

満済といえば「黒衣の宰相」と言われる、政治への関与が有名ですが、真言僧としても非常に有能だったようで、そもそも法力で室町殿や天皇の身体を護持する護持僧としては僧侶として有能でなければ勤まらないでしょう。

 

政治への関わりですが、満済が関わり始めたのは義持時代です。義持と大名たちの合議の際の仲介役として重用されたようです。満済の場合、実家の今小路家は早くに断絶し、満済はとりあえず貴族社会にしがらみがなかったのが幸いしたと言われています。

 

満済は特に鎌倉公方との交渉にはよく関わっています。デビューも関東関係の話し合いでした。

 

満済が特に有名になったのは足利義教擁立劇でしょう。義持が危篤になった時に、大名から義持との交渉役を任され、くじ引きでの決定を最終的に決めたのは満済の手腕です。義持は大名側に丸投げ、大名側も決められない、という状態だったわけですから。

 

満済はくじに字を書く役目を行い、山名時熙がご飯粒で封をし、畠山満家八幡宮(通説では石清水八幡宮)に持って行って神前でくじを引く担当になりました。結果は天台座主の義円が選ばれました。この時にイカサマをしたのではないか、というイカサマ説は根強くありますが、拙著でも述べましたように、多数説と同様にイカサマ説は成り立たないと私も考えています。

 

そもそも義円が意中の人ならば、一番年長で、僧侶としての実績も高い義円を普通に選出しておけばよかったはずで、おそらく大名側で話がまとまらず、義持に決めるようにお願いしても神託を理由に断られたため、どうしようもなくなった、と考えられます。ちなみに「神託」を理由に断る、というのは普通に考えれば逃げの口実ですが、義持の場合はガチである可能性が拭えないところ、少しこわいですね。

 

ともあれ義持から義教への代替わりをうまく仕切った満済に対する義教以下の信頼感は爆上げで、満済はその後ますます深く政治に関わっていくことになります。

 

義持時代は基本的にメッセンジャーでしかなかった満済ですが、義教時代になりますと、大名の意見を義教に取り次ぐ前に握り潰すという挙にも及んでいます。義教の見解に比べて圧倒的に劣る、という理由です。満済の凄いところは、握りつぶされた方が納得してしまう説得力です。

 

満済のタフネゴシエイターぶりは後小松法皇崩御時にもいかんなく発揮されます。時の後花園天皇伏見宮家の出自で、後小松とは猶子関係を結んでいるにすぎませんでした。そして後小松は後花園の実父の貞成親王による乗っ取りを恐れていました。貞成への太上天皇号による後花園と貞成の親子関係の可視化を拒絶し、貞成に自分の仙洞御所の引き渡しを禁じていました。

 

義教は後小松の諒闇をどうするかを満済に尋ねています。義教は諒闇にする必要はない、と考えていました。というのは後小松を後花園の父親から外してしまいたかったからです。満済はそれに断固として反対します。結果的にくじ引きで決めることになり。諒闇は行われることになりました。

 

比叡山と義教の対立に際しては穏便な決着を主張していましたが、結果的に義教は山門使節を殺害、根本中堂が炎上するという不祥事を引き起こしました。

 

そのころから満済の体調は悪化していたようで、明の使者への対応と明皇帝への国書の書き方をめぐる議論の頃には中風の症状に悩まされていたことが書かれています。私の修論のネタでしたが、改めてあのややこしい議論をこのような体調でやっていたことに驚きました。

 

明との関係では日本にしか通用しない理屈を振りかざして外交に臨もうとする大名たちを一喝し、円滑な外交交渉を行うように必死にドライビングする満済の姿が見えます。

 

満済が死去すると足利義教の暴走が始まる、と言われています。実際は満済の体調悪化が深刻となってきたころで、義教の無茶振りは後小松法皇崩御がきっかけではなかったか、という気が最近しています。

 

ともあれ、満済がいかに人格者だったかは、あの口の悪い貞成親王が「天下の義者」と評していることに現れています。

 

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 


満済:天下の義者、公方ことに御周章 (ミネルヴァ日本評伝選)