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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

足利義教は「天台開闢以来の逸材」だったか?2

足利義教の評伝に際しては「義教スゲ〜」説についてしっかり考察する必要がありそうです。

 

これはもちろん義教が凡庸であった、ということを主張したいのではありません。義教が相当有能であったことは当時の記録から見ても間違いがありません。しかし義教をスーパーマン化してしまうのも問題があります。

 

そのような言説の一つとして最近取り上げている「天台開闢以来の逸材」という言葉があります。これは現在のところいまだ典拠を見出せていません。また本郷和人氏は「義円の激しい性格と聡明さは、くじ引き以前からよく知られていた」と述べていらっしゃいますが、これについても現状では典拠を現状見出せていません。

 


人物を読む 日本中世史―頼朝から信長へ (講談社選書メチエ)

 

 

今谷明氏と森茂暁氏は義教についてかなり詳しい評伝を残していらっしゃいますが、そこには義円時代の義教について突っ込んだ議論をしていらっしゃいません。両氏の御著書を見る限り、義円が聡明であったかどうかについてはわかりません。

 


土民嗷々―一四四一年の社会史 (創元ライブラリ)

 


室町幕府崩壊 (角川ソフィア文庫)

 

で、私は前回も述べたようにSNSでご協力をお願いしたところ、明石散人氏の『二人の天魔王』が有力ではないか、という情報を得ました。

 

この書物は『看聞日記』や『満載准后日記』など多くの史料に当たって記述されています。ただし『建内記』は参照していなかったようで、『建内記』に引用されているくじ引き対象の人名を「不明」とした上で、くじ引き八百長説を展開していますが、私は八百長説自体、成り立たないと考えています。

 


増補 二人の天魔王 -信長の正体-

 

 ここで前回引用した、岡崎桓教が青蓮院義円に「天台相伝の秘書を伝えた」ことが、義円が「天台開闢以来の逸材」であったことの証明とされています。

 

これについてもう少し詳しく見ていきます。桓教が義円に「天台相伝の秘書を伝えた」というのは『満済准后日記』応永30年5月12日条に出てきます。

 

自岡崎准后以使者〈伊予上座〉被申子細。去月依頼所労未得減、同篇体也。仍法流事、大略青蓮院准后ニ兼ヨリ申入了。今ハ十九箱大事計候。此箱ハ即護法頂戴箱ト号、三昧流法統伝持来也。今度此大箱大事等令申彼門跡、可奉渡此箱由存候。但自故尊道親王此箱相伝申入候之時ハ、故鹿苑院殿ヘ被申入、被得時宜候キ。然者只今儀モ不可相替間、必可受時宜歟云々。

 

大雑把に何が書かれているかと言えば、岡崎准后(桓教)が病気のため、法流を青蓮院准后(義円)に譲ろうと思うが、これを尊道親王より継承したときには故鹿苑院殿(足利義満)の許可を得たので今回も公方の許可を得たい、という話です。この後続きがあって、病気なのでどうしようか、という相談事です。

 

この話のここでのポイントは、桓教がその「秘書」を「故尊道親王」から受け継いだ、ということです。前回のエントリで見たように尊道入道親王は義円入室直後に亡くなってますので、その法流は桓教に行っていたわけです。従って青蓮院に伝わってきた「秘書」を一時的に預かっていた桓教から元の持ち主を継承した義円に戻すのは、義円の才能とは関係がありません。

 

義円に抜かされた、と明石氏が考えた「良順(一四八世)、堯仁親王(百四十九世)、実円(百五十一世)、相厳(百五十二世)」はそれぞれ曼殊院(良順)、妙法院(堯仁)、毘沙門堂(実円)、檀那院(相厳)ですので、別に彼らが義円より劣っていたから外されたのではなく、彼らが青蓮院ではなかったからです。

 

従って義円が他の天台座主と比べて特別に有能であった、というのははっきりとそう言える根拠はない、と言い切れるでしょう。