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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

足利義教が琉球を島津氏に与えたというデマは潰す必要があります2

足利義教による「嘉吉附庸説」なる怪しい議論があります。1983年に完膚なきまでに叩き潰され、これまで琉球に言及する歴史学研究者はまずそれを何らかの事実を踏まえている、とは考えない代物ですが、一般書で歴史学者の肩書きでこれを取り上げる人がいる、という事実を踏まえ、これは潰さなければなりません。

 

「嘉吉附庸説」について詳細に考察したのは紙屋敦之氏です。初出は1983年の「琉球国司考」です。

 

初出の時の所収書物

 


近世の支配体制と社会構造

 

再録された著書


幕藩制国家の琉球支配 (歴史科学叢書)

 

紙屋氏によれば、琉球侵略後ギクシャクした琉球と民の関係が正常化した寛永10年(1633)に正常化したことをきっかけに琉球幕藩体制の中に組み込まれますが、その際に琉球足利義教から賜ったものだ、という「嘉吉附庸説」が唱えられた、ということです。

 

ここで課題として挙げられているのが「なぜ嘉吉元年(1441)なのか」という疑問ですが、これについての私見をここでは述べたいと思います。

 

『島津家文書』を紐解いてみればわかりますが、一番ストレートに室町幕府が島津氏を褒め称えたのが大覚寺義昭討伐事件だったからです。そこで最大級の賛辞が足利義教直々の御内書で贈られ、そこに義教の側近であった赤松満政の副状もつけられています。これだけの賞賛を浴びた事例を使わない手はありません。『島津家譜』と『島津家文書』を並べて読んでいると気づきますが、明らかに義教御内書に琉球の話を継ぎ足したものです。

 

紙屋氏は田中健夫氏の業績を引きながら足利将軍家御内書には「琉球を国内支配の枠組みで捉える琉球観を有していたことが明らかになる」としていますが、近年ではそのような見方は否定されています。

 

足利将軍家琉球宛の御内書について以前に述べました。読んでいただければ幸いですが、かいつまんで説明しますと、ひらがな書きの御内書は琉球国王に対して主として出されており、逆に琉球国王(世の主)から日本国王足利将軍家)へは和風漢文で出されています。そして管領から琉球重臣宛の文書も和風漢文です。つまり足利将軍家から世の主に渡される文書にのみひらがな表記が使われているのです。これが何を意味するか、と言えば、日本国王である足利将軍家琉球国王である世の主はお互いの国の国内文書の形式を使っている、ということです。室町将軍家は琉球を「異国」と見做していたことが明らかになってきています。従って足利将軍家の「御内書」というのも現在では使われません。年号が記され、印章が捺された「御内書」もどきの書状は「国書」というべき、れっきとした外交文書だったのです。

下のエントリでも述べていますが、室町将軍家が印章を捺すのは明・朝鮮・琉球のみです。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

ちなみに印章は次のように捺すようです。

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『昔御内書案』国立公文書館

 

よく見る印判状とは異なることがわかるでしょう。明らかに足利将軍家は国内の大名とは異なる基準で琉球世の主に対していたことがわかるでしょう。

 

義教の時代に琉球は三山統一が成し遂げられ、琉球王国が誕生した、と考えられています。三山統一以前から中山王の尚巴志足利義持の元に使者を派遣しているのに対して南山王や北山王からの国書は見当たらないので、その辺をどう考えるかはこれからの課題です。

とりあえず足利義教の評伝には正しい琉球の歴史の叙述が必要であり、いろいろ勉強したいと思います。