足利義教はなぜ北海道から沖縄までを支配したスーパーマンとなったのか
足利義教はしばしば織田信長のモデルともなった強力なリーダーシップを持った強烈な独裁者というイメージを持たれています。もっとも織田信長は足利義教のことを「悪御所」とディスっていますから、信長が義教のことを基本的には評価していなかったことが伺えます。義昭に対して「義教様は悪御所と呼ばれてますが何ででしょうねぇ(何かを見た)」と皮肉をかましていますが、部下に殺されてしまうまでそっくりなため、信長が殺された時に義昭は「特大ブーメラン乙」と思ったでしょう。
義教はその強烈なリーダーシップを生かして北海道から沖縄まで支配したことになっています。
もちろん誤りです。琉球に関しては現在研究上琉球を支配したことになっている論拠である「嘉吉附庸説」は完全に否定され尽くしており、これを事実として取り上げる著作物は歴史の著作ではなく、政治イデオロギーを主張するものでしかありません。イデオロギーを主張するのはよいのですが、虚偽の歴史的事実をでっち上げてイデオロギーを主張するのは、そのイデオロギーそのものの説得性を失わせるだけです。
北海道の方では「十三湊還住説」となりましょうか。こちらはイデオロギー的な問題ではなく、単に史料の誤読です。『満済准后日記』をしっかりと読めていなかった。それが原因です。『青森県史』でも『看聞日記』の読みが結構ガバガバなのは以前述べましたが、北方史の研究ではしばしば室町時代の日記類を雑に読むケースが目につきます。
しかし後花園天皇が『東日流外三郡誌』や『東北太平記』に出てくるのはなぜか、ということを考えた場合、足利義教の時代に沖縄や北海道が日本の歴史に絡んでくることにも着目すべきではないか、とも思います。
ミクロな視点で言いますと、琉球が三山統一を経て統一国家を形成したのが1429年、日本では永享元年です。そして津軽安藤氏が南部氏に攻撃されて北海道に落ち延びるのが1432年、永享4年です。
義教が日明関係の復交を目指した時、それを仲介したのが琉球の尚巴志でした。義持時代から尚巴志は室町将軍と関係を持っていたため、明の依頼を受けて義教に手を差し伸べたのです。そして義教の管領を務めていた細川持之と尚巴志に仕えていた王相懐機が書状のやりとりをしています。義教は確かに琉球と関係を持っていたのです。
津軽安藤氏は京都扶持衆であった、と考えられています。関東公方の足利持氏に京都扶持衆が攻撃された時に津軽安藤氏は室町公方の足利義持に贈り物を贈って義持から感謝の御内書を拝領しています。
南部氏は『看聞日記』には「関東大名」と記され、足利持氏の使者として黄金と馬を足利義持の元に贈っています。南部氏はどうやら足利持氏と深い関係を持っていたようです。
その南部氏による京都扶持衆津軽安藤氏の攻撃に対して義教ができたことといえば、後花園天皇の口宣案を出して南部氏の懐柔を図ることぐらいでした。いわば口先介入しかできなかったのです。
しかしそれでも義教が北海道まで何らかの関係を有していたことは事実です。近年安藤氏の北海道での拠点の一つと考えられている矢不来館の発掘調査の結果、彼らが京都の文化を受容していたことが明らかとなっています。北海道南部まで室町殿の文化に組み入れられつつあったのです。
これをマクロな視点から見てみますと、この時代は「グローバルな中世の危機」を脱して「近世帝国」が作られつつある時期だとも言えます。十四世紀の「グローバルな中世の危機」によって元、高麗、鎌倉幕府が滅亡し、明、朝鮮、室町幕府が出現します。そのもとで危機が克服され、近世帝国が登場するステップである「長期の十六世紀」のキックオフの時代に当たるのが十五世紀半ばという時代です。
その時代に足利義教が登場したのです。足利義教が強烈な個性を放ち、当時の日本の状況に立ち向かったのは間違いがありません。わずか13年という短い間に義教が日本列島に残した刻印は意外と大きいものでした。それはそれとして評価する必要があります。そして彼の目指したものの多くは嘉吉の乱と嘉吉の徳政一揆で崩壊していきます。
嘉吉の乱と嘉吉の徳政一揆は一連のものです。そしてそれが多くの可能性を葬っていったのも事実です。そして何が残されたのか、その点を足利義教の評伝によって解明する必要があります。
ちなみにネタ元はこちらです。
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