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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

豆腐メンタルの足利義教

足利義教と言えば極めて強い意思で弱体化した日本を立て直し、琉球まで支配したスーパーマンであるという幻想が通用しています。

そのバリエーションが南部氏と安藤氏の戦いに介入し、南部氏に対して御内書を出して強く和睦を勧めたためにさすがの南部氏も義教の要請に従って安藤氏の十三湊への還住が実現するという話です。

これは以前にも当ブログで述べてきましたし、また拙著『乱世の天皇』でも述べていますのでここでは詳しくは述べませんが、わかりやすく言えば口先介入を主張する畠山満家と口先介入すら拒否する足利義教の対立です。

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

 

同様のことは大和国一揆でも起きており、口先介入を主張する南都伝奏の万里小路時房と口先介入を拒否する足利義教の対立です。

 

義教がなぜ口先介入を拒否するのでしょうか。それは自分の命令を拒否するものがいると信じたくない豆腐メンタルのせいです。考えれば、ここでの命令は所詮は口先介入ですから、南部氏や大和国人が義教のいうことを聞くとは誰も考えていません。ただ時房や満家はそれでも介入したという実績が重要と考えていました。しかし義教は介入して無視された、ということによってプライドが傷つくのです。だから義教は口先介入すら拒否するのです。

 

同じ事例を見つけました。というか、今から20年近く前に扱ったことがあったのですが、これも義教の口先介入の拒否だと気づいていませんでした。その頃は義教の口先介入に関心もなかったので。

 

秦野 裕介 (Yuusuke Hatano) - 「倭寇」と海洋史観--「倭寇」は「日本人」だったのか - 論文 - researchmap

 

満済准后日記』永享6年6月17日条です。

 

明の使者が来日し、義教を日本国王冊封するための使者が来日しますが、その時の外交交渉として、倭寇の禁圧、倭寇に拉致された明人の送還が決定します。

 

このうち「賊船」の停止の問題については次のようになっています。

 

就其賊船事ハ、壱岐対馬者共、専致其沙汰歟。

 

これについて黒嶋敏氏は次のように述べています。

明からの要請を受け義教は、「賊船(倭寇)」の根拠地とされる対馬壱岐に影響力を持つ少弐氏(『海の武士団』)

 

 

 

私も「「賊船事」は「壱岐対馬者共」の行為であり」としていますから、その辺は黒嶋氏の見解に同意します。

 

ただ最近出された伊東亜希子氏の「少弐氏と朝鮮通交」(『日本歴史』874号、2021年)では「賊船の取り締まりは壱岐対馬の者たちが従事していて」と、逆の解釈になっています。

 

この解釈の違いは「沙汰」という言葉の解釈によるものです。

 

沙汰|日本国語大辞典|ジャパンナレッジ

 

沙汰とは - コトバンク

 

壱岐対馬の者共」が倭寇なのか、倭寇を取り締まる立場か、はさておいて、この二つの島が少弐氏の被官(家来)であることから、少弐氏に命じて取り締まらせる必要があります。

 

ただ問題点があって、少弐氏はその前年から義教によって治罰される対象であり、治罰の対象である少弐氏に御教書を出すのは「存外」である、と義教がごね始めたので、赤松満祐と細川持之が「この御教書によって赦免されるわけではないので問題ありません。少弐氏に御教書を出すべきです」と再三進言しても義教は拒否し続けるので、どうすればいいのか、と相談事を満済に持ってきます。

 

満済は「上意は尤も」と義教の気持ちに理解を示しますが、実際問題としてなんらかの処置は取らなければならず、満済は「対馬一国は少弐氏の家臣の宗氏が支配しているのだから彼らに御教書を出せばいい。壱岐は誰が支配しているのか知らないが、下松浦の者が支配しているのならば彼らも少弐関係者である。同様に下松浦に御教書を出せばいい」と答えています。

 

この満済の対応で義教が満足したかどうかは明らかではありませんが、その後持之と満祐はこの問題を満済の元に持ち込んでいませんから、一応解決はしたようです。

 

この問題は九州問題について幕府の対応がかなりいい加減だという文脈で把握されていますし、私自身もそれは当たっていると思います。しかし同時にこの問題をややこしくしているのが「俺に敵対している少弐氏に仕事を命じるのはおかしい」という義教の筋論というか、潔癖症である、ということも事実です。

 

おそらく持之も満祐も満済も実際に少弐氏に倭寇禁圧の命令を出してもそれが実効性のあるものであるとは思っていません。そもそも少弐氏の元に辿り着くかどうかすら怪しいでしょう。要するにここで持之らがやろうとしているのは明の使者の帰還に際して倭寇禁圧を要求されているので、形だけでも明の要求に応えようという口先介入です。要するに「出した」ということが重要なのですが、義教にとってはそれでも少弐氏を赦免しかねないことが癪に触るのです。

 

その辺満済の対応は流石にスマートです。少弐氏に出すのではなく、宗氏と「下松浦」の誰かに出す、というあたり、かなり適当だな、と思いますが、カリカリしている義教の癇癪をそらす意味はあるでしょう。

 

義教の豆腐メンタルの逸話としてもう一つ紹介しておきます。

永享2年(1430)のことです。一色義貫が義教の右大将拝賀式をボイコットします。大名が行列に騎馬で参加する「大名一騎打」の先頭を望んだ義貫に対し、義教は畠山持国を先頭とします。それにキレた義貫は行事をボイコットしますが、それに対し義教が義貫の処分を検討し、畠山満家らに諮問します。

 

満家としても自分の息子がからむ話ですから頭の痛い話ですが、満家は義貫の処分を回避するように進言します。それに対し義教は「畠山の意見は「事始」である」と批判します。今の言葉で言えば「判で押したようだ」という感じでしょうか。「いつもいつも「無為」(穏便に)とばかりいう」と不満を漏らし、「関東・九州へも聞こえが悪い。これでは将軍のために問題が起こらないとか、権威を失わないと言えるのか」と迫ります。

 

それに対する満家の返答が見事です。「問題も起こらないし、権威も失わない」と言い切ります。義教が重ねて「許したら色々と話が広まるだろう。だから処分をしないわけには行かない」と迫りますが、「その振舞では問題が起こることはなかった。あなたの未練がましい態度が問題です」とはねつけます。満家は義教のメンツにこだわる姿勢をよく思っていないことがわかります。

 

義教がメンツにこだわるのは昔からで、それは一貫しています。義教が後半になって我を張るように見えるのは、満家が永享5年に死去していることが大きいのでしょう。

 

ちなみに義教は臨界点を超えると突然武力介入をおっぱじめ、泥沼にハマることもあります。大和国一揆は義教が突如キレたことで武力介入が始まり、その過程で一色義貫・世保持頼が殺害される、という修羅場を演出することになります。義教は後花園天皇の治罰綸旨を出し、大和騒乱の決着を一気に図ろうとしますが、義教は嘉吉の乱に倒れ、嘉吉3年に後花園天皇による停戦綸旨で終結します。